
私、悪役令嬢でした
こ、ここは……?
見慣れない、やけに豪華な飾りのついたベッドの上。
重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、きらびやかなシャンデリアと、美しいフリルが幾重にもあしらわれたカーテンだった。
(あれ……私、昨日も深夜まで残業して、ボロボロのアパートに帰って……寝たはずじゃ……)
ズキリ、と頭が痛む。
何かに強くぶつけたような、鈍い痛み。そうだ、確か、帰り道でぼーっとしていて、階段から――。
そこまで思い出した瞬間、脳内に、今まで知るはずもなかった記憶の波が押し寄せてきた。
『イザベラ様、本日の魔法学の授業は……』
『まあ、イザベラ様ったら! アレクシオス殿下とのご婚約、おめでとうございます!』
『平民の娘の分際で、アレクシオス殿下に色目を使うなんて、万死に値しますわ!』
知らないはずの光景。知らないはずの感情。
傲慢で、意地悪で、常に自分だけが一番だと信じて疑わない、一人の令嬢の人生。
そして、鏡に映る、この現実離れした美貌。
燃えるような赤い髪に、吊り上がった猫のような緑色の瞳。雪のように白い肌。
神が愛情を全て注ぎ込んで作り上げたとしか思えない、完璧な美少女。
その顔は、私が前世で唯一の楽しみにしていた乙女ゲーム、『聖女様のシャイニング・ラブ』に登場する、悪役令嬢――イザベラ・フォン・クラインフェルトそのものだった。
「う、そでしょ……」
喉から絞り出した声は、鈴を転がすように可憐に響く。絶望的な状況とは裏腹に。
よりにもよって、イザベラに転生なんて!
彼女は、ゲームの主人公である聖女エリアナをいじめ抜き、その罪を婚約者である王太子アレクシオスに断罪され、卒業パーティの日に処刑されるという、確定した破滅ルートを辿るキャラクターだ。
(死にたくない……! あんな無惨な死に方、絶対に嫌!)
恐怖で全身が震える。
前世の私、佐藤凛子(さとうりんこ)、二十六歳。趣味は乙女ゲーム。
地味で、人に逆らうこともできず、ただ黙々と仕事をこなすだけの毎日。そんな私が、こんな強烈なキャラクターになれるはずがない。
落ち着け、私。まだ時間はある。
ゲームの記憶が正しければ、今は十六歳。王立魔法学園の入学式を数日後に控えた時期のはずだ。
卒業パーティでの断罪イベントまでは、まだ二年も猶予がある。
二年間。その間に、破滅フラグを全部へし折ればいい。
「そうだわ……!」
やるべきことは一つ。
イザベラの最大の破滅フラグは、王太子アレクシオス殿下との婚約関係そのもの。
彼に執着し、聖女ヒロインのエリアナに嫉妬するから、破滅するのだ。
ならば答えは簡単。
「婚約を、破棄すればいいんだわ!」
そして、ゲームのメインキャラクターであるアレクシオス殿下や、今後登場するヒロインのエリアナとは、一切関わらない。
学園では息を潜めて空気のように過ごし、卒業後はクラインフェルト公爵家の領地の片隅で、静かに暮らすのだ。
幸い、公爵家は裕福だ。一生遊んで暮らせるだけの財産はある。
完璧な計画。
私はガッツポーズを……しようとして、優雅なシルクの寝間着がまとわりつく腕の動きの鈍さに、改めて貴族令嬢になったのだと実感する。
数日後。
王立魔法学園の入学式は、厳かな雰囲気の中で執り行われた。
新入生代表として壇上に立つアレクシオス殿下は、ゲームのイラストから抜け出してきたかのように、非の打ち所がない美しさだった。
陽光を弾く銀糸の髪に、理知的な光を宿す空色の瞳。すらりとした長身。
彼が祝辞を述べ始めると、会場のあちこちからうっとりとした溜め息が漏れる。
(綺麗……って、見惚れてる場合じゃない!)
私は公爵令嬢として割り当てられた前方の席で、必死に気配を消していた。
お願いだから、私に気づかないで。
婚約者だけど、今はまだ顔合わせ程度の関係のはず。このまま存在を忘れ去られるのが一番いい。
式が終わり、各クラスへと移動する時間。
私は人混みに紛れて、誰よりも早く、誰よりもひっそりと会場を後にしようとした。
その時だった。
「――イザベラ」
凛とした、よく通る声。
背後からかけられたその声に、私の心臓は氷水に浸されたかのように冷たくなった。
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、言うまでもなくアレクシオス殿下だった。
彼はまっすぐに私を見つめている。その空色の瞳は、まるで私の全てを見透かしているかのようだ。
「ごきげんよう、アレクシオス殿下」
スカートの裾をつまみ、淑女の礼(カーテシー)を完璧にこなす私。中身はパニック状態のただの元OLなのに、体に染み付いた振る舞いとは恐ろしいものだ。
「ああ。元気そうで何よりだ」
殿下はそう言うと、すっと私に歩み寄ってくる。
やめて、来ないで! 私という破滅フラグに近づかないで!
内心の絶叫とは裏腹に、私の体は一歩も動けない。
そして、彼は私の目の前で足を止めると、ふっと目を細めた。
「……妙だな」
「へっ?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。いけない、イザベラはこんな声は出さない。
「以前会った時より、ずいぶんと……大人しい」
彼の視線が、探るように私の顔をなぞる。
まずい。以前のイザベラは、殿下に会うたびに「わたくしが殿下に一番相応しいのですわ!」と傲慢なアピールを繰り返していたはずだ。
今の私が、ただ黙って俯いているのは、彼にとって不自然極まりないのだろう。
「き、気のせいですわ。わたくし、本日は少々、体調が優れなくて……」
我ながら、なんて下手な言い訳だろう。
顔は青ざめ、声は震えているに違いない。
「体調が? それはいけないな」
彼はそう言うと、すっと手を伸ばし、私の額に触れようとしてきた。
「ひっ……!」
咄嗟に、私はその手を避けるように大きく後ずさった。
ガシャンッ!
何かにぶつかった衝撃。私が持っていた小さなパーティバッグが床に落ち、中身が派手に散らばった。
「申し訳ありません!」
もうパニックだ。私は慌てて床に散らばったハンカチや手鏡を拾い集めようとかがみ込む。
しかし、その手よりも早く、長い指が床の上の小さなリップクリームを拾い上げた。
「……こんなものまで持っているのか」
アレクシオス殿下が、不思議そうな顔でそれを見ている。
それは私が前世から愛用していた、ごく普通の薬用リップクリームだ。乾燥が気になって、ついバッグに入れてしまっていた。
この世界の貴族令嬢が持つような、宝石のついた華やかなものではない。
「あ、いえ、それは……その……」
どうしよう、言い訳が思いつかない。
私が口ごもっていると、殿下はそれを私の手にそっと握らせ、立ち上がるのを助けてくれた。
「騒がせてすまなかった。だが、本当に顔色が悪い。医務室へ行った方がいい」
「だ、大丈夫ですわ! これで失礼いたします!」
私はもう一度、ぐちゃぐちゃのカーテシーをすると、ほとんど逃げるようにその場を走り去った。
ああ、もう最悪だ。
婚約破棄どころか、思いっきり関わってしまった。
しかも、挙動不審な上に、変なものまで見られて……。
きっと呆れられたに違いない。もしかしたら、気味悪がられたかも。
そうよ、それでいいのよ。
これを機に、「イザベラは頭がおかしくなった」とでも思ってくれれば、婚約破棄もスムーズに進むかもしれない。
そう無理やり自分を納得させ、寮へと向かう廊下を歩いていた、その時。
「――イザベラ・フォン・クラインフェルト公爵令嬢」
背後から、別の凛とした声が響いた。
侍従だろうか。振り返ると、王家の紋章をつけた侍従が、一枚の蝋で封をされたカードを手に立っていた。
「アレクシオス殿下より、お預かりしております」
侍従が丁寧に差し出したカードを受け取る。
そこには、美しい文字でこう書かれていた。
『放課後、中庭にて待つ』
……終わった。
私の静かな学園生活、終わった。
入学初日にして、最大の破滅フラグが、目の前にそびえ立っていた。
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