
ヒロイン登場と、王子様の誤解
『放課後、中庭にて待つ』
アレクシオス殿下から半ばむりやり渡されたカードを握りしめ、私の足は中庭へと向かっていた。
もちろん、行きたくない。心の底から行きたくない。
一歩進むごとに、胃がキリキリと痛むようだ。これから待ち受けているのは、ゲームで言えばバッドエンド直行の強制イベント。悪役令嬢イザベラが、王太子アレクシオスに呼び出される。ろくなことにならないに決まっている。
だが、王太子殿下からの呼び出しを無視すれば、それこそどんな理由で断罪されるか分からないのだ。悪役令嬢とは、そういうわけのわからないポジションなのである。
中庭に着くと、噴水のそばに立っている銀髪の姿がすぐに目に入った。
アレクシオス殿下だ。
彼は絵画のように美しくそこに立ち、私が近づくのを静かに待っていた。
「……お待たせいたしました、アレクシオス殿下」
「ああ」
私は心臓が口から飛び出しそうなのを必死にこらえ、完璧な淑女の礼をとる。
殿下は表情一つ変えずに私を見下ろした。
「はっきり聞こう。君は、何をしようとしているんだ?」
「……へ?」
予想の斜め上を行く質問に、またしても間抜けな声が出た。
何かをしようとしてる? 私が? 何を?
「入学式での妙な態度。そして、私を避けるようなそぶり。何か理由があるはずだ」
「そ、それは、体調が優れなかったと……」
「嘘だな」
空色の瞳が、私を見抜くように細められる。
ひ、ひぃ……! 怖い!
「君ほどの公爵令嬢が、体調管理もできずに重要な式で失敗するなど、あり得ない。それに、君の瞳は恐怖に揺れている。だが、私に会う前の君は、もっと……そう、偉そうなくらい自信に満ちていた」
な、なんでそんなによく見ているのよ!
この人、本当にゲームのヒーロー? 実は探偵か何かなんじゃないの?
「何か言うことはないか、イザベラ」
「……」
言えるわけがない。
「実は私、前世の記憶がある転生者でして、あなたが婚約者のままだと、あなたに処刑される運命なんです。だから婚約破棄してください」
なんて、口が裂けても言えるものか。頭がおかしいと思われるのがオチだ。
「……わたくしには、殿下のおっしゃっている意味が、よく分かりません」
これが精一杯の抵抗だった。
殿下はふう、と小さな溜め息を吐くと、一歩、私に近づいた。
「そうか。ならば、一つ言っておく」
「い、言っておく、ですの?」
「君は私の婚約者だ。その立場を忘れたような行動はやめておけ。私の目の届く範囲で、おかしな真似はするな」
それはつまり、「お前を監視しているぞ」と言っているのと同じだった。
絶望だ。私の穏やかな学園生活は、開始二日目にして完全に終わりを告げた。
それから数日。
私はアレクシオス殿下の鋭い視線を感じながら、死んだように静かな学園生活を送っていた。
教室ではなるべく窓際の席に座り、存在感を消す。休み時間も、一人で読書をして過ごす。廊下を歩くときですら、壁にとけ込む勢いで端を歩いた。
幸い、元々のイザベラの性格のおかげで、友達と呼べるような令嬢は一人もいない。話しかけてくる生徒もいないので、空気になりきる計画はうまくいっている。ぼっち万歳。
ただ一つ、常に背中に突き刺さるような、あの王太子殿下の視線を除けば。
そんなある日の昼休み。
私は学園の図書館で、領地経営に関する本を読んでいた。破滅エンドの後に、領地の片隅で静かに暮らすための、ささやかな準備である。
その時、ふと視線を感じて顔を上げた。
本棚の陰から、こちらを見ている少女がいた。
(……あ)
息を呑む。
ふわふわの蜂蜜色の髪に、守ってあげたくなるような大きな青い瞳。
小動物のような愛らしさと、誰をも惹きつける不思議な魅力。
彼女こそ、このゲームの本来の主人公――聖女エリアナだった。
確か彼女は、とても珍しい聖なる魔力を持つ平民として、特待生でこの学園に入学したはずだ。
(関わっちゃダメ、絶対……!)
彼女こそが、私の最大の破滅フラグ。
イザベラは彼女に嫉妬し、ありとあらゆる嫌がらせをして、最後には殺害しようとまでしたのだ。
私は慌てて本に視線を戻し、気づかないふりを決め込む。
だが、運命とは意地悪なものだ。
エリアナさんは、どうやら高い場所にある本を取りたいらしい。背伸びをして、必死に手を伸ばしている。
周りの貴族の生徒たちは、平民の彼女を遠巻きに見ているだけで、誰も助けようとしない。その冷たい視線が痛いほど分かる。
(……見ちゃダメ、見ちゃダメよ私)
ここで私が助けたりすれば、また新たなフラグが立ってしまうかもしれない。
原作のイザベラなら、ここで「そんな汚い手で、図書館の本に触らないでくださる?」とでも言って、彼女をいじめるのだろう。
だが、そんなことをすれば破滅エンドへ一直線だ。
かといって、助ければ「悪役令嬢がヒロインに接触。何か企んでいるに違いない」と、あの探偵王子に目をつけられる。
どうするのが正解なのよ……!
数秒間、激しく迷った末、私は静かに立ち上がった。
そう、前世の私、佐藤凛子は、困っている人を見過ごせない、お人好しな性格だった。その魂が、この悪役令嬢の体の中でも叫んでいるのだ。
それに、ここで無視して、万が一エリアナさんが怪我でもしたら? 「イザベラ様が見ていたから、エリアナは無理をしてしまった」なんて噂が立ったら、それこそ最悪だ。
結局、私は彼女の後ろから、すっと手を伸ばして目的の本を取ってあげる。
「……え?」
驚いたように振り返るエリアナさん。
その青い瞳と、ばっちり目が合ってしまった。
「あ、あの……ありがとうございます……!」
「……いえ」
私はそれだけを短く告げると、彼女に本を渡し、足早にその場を去った。
よし、完璧だ。最小限の接触。これならイベント発生とは言えないはず。
そうほっとしたのも束の間。
図書館の出口で、私は壁に寄りかかって腕を組んでいる、見慣れた銀髪の人物に気づいて、心臓が止まるかと思った。
「……殿下」
「今のは、何だ?」
アレクシオス殿下の声は、いつもより数段、冷たく響いた。
その瞳は、好奇心ではなく、明確な疑いの色をたたえている。
「特待生の平民に、何か用だったのか?」
「いえ、何も……ただ、本を取って差し上げただけで……」
「ほう? あの偉そうだった君が、平民に親切とはな。ずいぶんと感心な心がけだ」
言葉とは裏腹に、その声には皮肉がたっぷり含まれている。
まずい。完全に誤解されている。
彼から見れば、公爵令嬢の私が、何の理由もなく平民の生徒に近づくのは、怪しい以外の何物でもないのだろう。
きっと、「哀れな平民を手なずけて、何か悪いことに利用するつもりだ」とでも思われているに違いない。
「……何か、企んでいるのではないかと、疑っておいでですか?」
「さてな。だが、言ったはずだ。私の目の届く範囲で、おかしな真似はするな、と」
彼はそう言うと、私の横をすり抜けて、図書館の中へと入っていく。
そのすれ違い様、彼は私の耳元で、凍えるように冷たい声でささやいた。
「彼女に、手を出すな」
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
違う、違うんです殿下! 私はただ、破滅フラグを回避したいだけで……!
私の心の叫びは、もちろん彼に届くはずもない。
こうして、私の破滅フラグ回避計画は、ヒロインの登場によって、さらに複雑で難しいものになっていくのだった。
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