
明かされる過去の約束
玉響が屋敷を訪れてから、数日が過ぎた。
あの日の出来事は、わたしの中に大きな変化をもたらしていた。誰かに守られるという、生まれて初めての経験。それは、驚きととまどいと共に、じんわりとあたたかい何かをわたしの心に残していった。
常磐様の隣にいることが、前よりも怖くなくなった。彼の向ける不器用な優しさも、素直に受け止められるようになってきた気がする。
先日も、庭の花に水をやっていると、常磐様がふらりとやってきたことがあった。
「精が出るな」
「あ、常磐様……! はい、この花、もうすぐ咲きそうで」
「……そうか」
短い会話。けれど、彼の声には、かすかに穏やかな響きがあった。わたしが育てているものに、彼が興味を持ってくれている。その事実が、たまらなく嬉しかった。
わたしは、この偉大なあやかしの花嫁なのだ。その事実が、少しだけ胸を張りたいような、くすぐったいような気持ちにさせた。
けれど、心の隅に、小さな染みのように一つの疑問がずっと残っていた。
どうして、わたしだったのだろう?
たくさんの人間の中から、たくさんの女のひとの中から、なぜ常磐様は、わたしを選んだのだろうか。
あの玉響のように、美しくて気高いあやかしはたくさんいるはずだ。それに比べて、わたしはみすぼらしくて、何の取り柄もない。彼がわたしを花嫁にした理由が、どうしても分からなかった。
その疑問は、日に日にわたしの心の中で大きくなっていく。彼を信じられるようになった今だからこそ、その答えが知りたかった。もし、彼がわたし自身を見てくれていたのなら、これ以上のよろこびはない。でも、もし違ったら……。その恐怖が、わたしの舌を重くする。
月が美しい、静かな夜だった。二人で縁側に並び、庭を眺めている時、わたしは意を決して、隣に座る彼の横顔を見上げた。
「あの……常磐様」
「なんだ」
彼は、月を見上げたまま、静かに答える。
「お聞きしたいことが、あります」
「言ってみろ」
彼の許しを得て、わたしは一度、ごくりと息をのんだ。心臓が、どきどきと大きく音を立てている。
「常磐様は……どうして、わたしを……お嫁様に、選んでくださったのですか?」
震える声で、やっとの思いで尋ねた。ずっと聞きたかった、でも聞くのが怖かった質問。もし、その答えにがっかりしてしまったらどうしよう。もし、今のこの穏やかな時間が、壊れてしまったら……。
不安に揺れるわたしを、彼はただ静かに見つめていた。月の光を浴びたその瞳は、何を考えているのか少しも読めない。
長い、長い沈黙が流れる。夜の空気が、急に冷たくなったように感じた。わたしは、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれないと、後悔し始めていた。
「……それは、古い約束だからだ」
やがて、常磐様はぽつり、とそう言った。その言葉に、胸がざわりと嫌な音を立てた。予感、と呼ぶにはあまりにも冷たい何かが、背筋を駆け上がった。
「約束、ですか?」
「ああ。私とお前の先祖が交わした、古い古い契約だ」
そう言って、彼は静かに語り始めた。その声はいつもより低く、重く感じられた。それは、わたしが生まれるよりも、ずっと昔の話。
わたしの先祖は、ある時、森の理を捻じ曲げるほどの大きな罪を犯し、その一族は呪いを受けたのだという。その呪いは代々受け継がれ、一族を苦しめ続けた。
その呪いを解くことができるのは、強大な力を持つあやかしだけ。追いつめられたわたしの先祖は、森の主である常磐様に助けを求めた。
「私は、お前の先祖と契約を交わした」
常磐様の声は、夜のしじまに静かに響く。
「お前の一族にかけられた呪いを、私が解いてやろう、と。その代わり――」
彼はそこで一度、言葉を切った。そして、まっすぐにわたしを見つめて、続けた。
「一族の中から、最も美しい魂を持つ娘を、私の花嫁として差し出す、と」
その言葉が、わたしの耳に届いたしゅんかん。
世界から、すっ、と音が消えた。頭を鈍器で殴られたような、強い衝撃。目の前の景色が、ぐにゃりとゆがむ。足元が崩れ落ち、奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われた。
最も、美しい、魂を持つ、娘。花嫁として、差し出す。
頭の中で、彼の言葉が何度も何度も繰り返される。理解したくなくて、耳をふさぎたかった。けれど、彼の言葉は容赦なく、わたしの心に突き刺さってくる。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
わたしが花嫁に選ばれたのは、わたしが「美世」だからじゃなかったんだ。
わたしは、呪いを解くための、代償。生贄。ただ、それだけだったんだ。
頭の中に、これまでの日々が駆け巡る。初めて会った日、美しい着物をくれた日、庭仕事を与えてくれた日、そして、玉響から守ってくれた日。あの時の優しさも、穏やかな眼差しも、すべて。すべてが、この「契約」のためだったのだ。
そう理解したとたん、今まで彼に対して感じていた、あたたかい気持ちのすべてが、急速に冷えていくのを感じた。芽生え始めていた信頼も、安心感も、くすぐったいような嬉しい気持ちも、すべてが砂の城のように、あっけなく崩れ去っていく。
血の気が、さあっと引いていく。指先が、氷のように冷たくなっていく。
「美世?」
常磐様が、心配そうにわたしの名前を呼ぶ。けれど、その声はもう、わたしの心には届かない。まるで分厚いガラスの向こう側から聞こえるようで、ひどく遠い。
わたしは、彼の顔を見ることができなかった。ただうつむいて、自分の膝の上を見つめる。ぎゅっと握りしめた拳が、小さく震えていた。
違う、と否定してほしかった。お前だから選んだのだと、そう言ってほしかった。でも、彼の口から語られたのは、あまりにも残酷な「契約」という名の真実だった。
わたしの心に、厚くて硬い氷の壁が、一瞬でできあがっていく。もう、何も感じたくない。何も、考えたくない。
常磐様が何かを話しかけてくれているようだった。けれど、その言葉は、まるで水の中にいるように、くぐもって聞こえるだけ。
わたしは、ゆっくりと立ち上がると、彼に背を向けた。
「……おやすみなさい」
かろうじてそれだけを言うと、わたしは逃げるようにして、その場を立ち去った。
追いかけてくる声も、気配もなかった。いや、あったのかもしれないけれど、今のわたしにはもう、何も分からなかった。
部屋に戻り、布団にもぐりこんでも、心臓は冷たいままだった。あたたかいはずの布団が、今はただただ寒い。広い部屋に一人、という事実が、今はただ恐ろしかった。
わたしは、やっぱり、生贄だったんだ。ただ、喰われる代わりに、花嫁という名前の生贄になっただけ。
その事実が、鉛のように重く、わたしの心にのしかかっていた。
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