
招かれざる客
裏庭に、わたしが植えた小さな白い花が咲いてから、わたしの日常はほんの少しだけ色づいたように思う。
朝、目を覚ますと、まず庭に出て花に水をやることが、わたしの新しい習慣になった。日に日に増えていく緑の葉や、新しくふくらむ蕾(つぼみ)を見つけるたびに、胸の奥に小さなよろこびが灯る。
常磐様は、そんなわたしを何も言わずに見守ってくれていた。あの日以来、彼がときおり見せるおだやかな表情は、わたしの心を少しずつ、けれど確かに解きほぐしていった。
ここは、わたしの居場所なのだと。そう思えるようになり始めていた、そんなおだやかな昼下がりのことだった。
いつものように縁側で庭をながめていると、屋敷の玄関の方から、高く澄んだ声が聞こえてきた。
「常磐様、いらっしゃるのでしょう? 玉響(たまゆら)がおたずねしましたわ」
その声には、聞き覚えがなかった。わたしがこの屋敷に来てから、誰かがたずねてくるのは初めてのことだ。
どうすればいいのか分からずにいると、すっとふすまが開き、常磐様が現れた。
「客だ。お前もここへ」
短い言葉に、わたしはこくりと頷いて、彼の後ろをついていく。客間には、いきをのむほど美しいあやかしが座っていた。
きらびやかな赤い着物を着こなし、つややかな黒髪を結い上げた、きつねの耳を持つ女のひと。その顔立ちは人形のように整っているけれど、わたしに向ける瞳には、あからさまな珍しいものを見るような光と、そしてねぶみするような光がやどっていた。
「まあ、あなたが常磐様。こちらが噂の……『お嫁様』ですの?」
玉響と名乗った妖狐は、くすくすとおうぎで口元を隠しながら言った。その仕草は優雅なのに、どこかトゲを含んでいる。
「玉響。何の用だ」
常磐様は、わたしの隣に腰を下ろしながら、低い声でたずねた。
「つれないことをおっしゃらないで。ただ、常磐様が人間を花嫁にしたとうかがったものですから、どんな方か一度お目にかかりたくて」
そう言って、玉響はわたしにねっとりとした視線を向けた。
「……か弱くて、すぐに壊れてしまいそうだこと。それに、ひどくみすぼらしい。本当に、この方が常磐様のお嫁様なのですか?」
その言葉に、わたしの心臓がどきり、と嫌な音を立てた。みすぼらしい、という言葉が、するどい針のように突き刺さる。村にいた頃、さんざん投げつけられた言葉だった。
わたしは思わずうつむいて、自分の膝の上できつく拳をにぎりしめた。
「玉響。口をつつしめ」
常磐様の静かな声が、部屋の空気を少しだけ冷たくする。けれど、玉響はまったく気にした様子もなく、さらに言葉を続けた。
「あら、ごめんなさい。でも、本当のことですわ。なぜ人間などを花嫁に? わたしたちあやかしとは違う、もろくて、はかなくて、すぐに死んでしまうような生き物ではありませんか」
「……」
「ああ、そうか。もしや、ペットのようなものですの? それなら分かりますわ。けれど、常磐様の隣に立つには、あまりにも……」
ふさわしくない、と。彼女がそう続けようとした、そのしゅんかんだった。
ぞわり、と。肌が粟立つほどの、すさまじい妖気が、部屋中に満ち満ちた。
それは、隣に座る常磐様から放たれていた。今まで感じたことのない、冷たく、そして燃えるような、はげしい怒りの気配。
「――それ以上、口を開くな」
地をはうような低い声が、部屋を震わせた。それは、いつものおだやかな常磐様からは想像もつかない、絶対的な力を持つ、大妖怪の声だった。
玉響の顔から、すっと笑みが消える。その美しい顔は恐怖にひきつり、おうぎを持つ手がかたかと震えていた。
「と、常磐、様……? わたくしは、ただ……」
「聞こえなかったか、玉響」
常磐様はゆっくりと立ち上がった。その体から放たれる威圧感に、わたしはいきをすることすら忘れてしまう。
「わたしの花嫁をぶじょくする者は、誰であろうと許さない」
はっきりと、そう言った。
わたしの、花嫁――。
その言葉が、かみのようにわたしの胸をつらぬいた。ぶじょくされたことへの恐怖や悲しみよりも、もっとずっと大きなしょうげきが、わたしを支配する。
守られている。わたしが、この偉大なあやかしに。
玉響は、腰を抜かしたように畳にへたり込み、顔を真っ青にしていた。
「も、申し訳……ございません……! どうか、お許しを……!」
「……失せろ。二度とわたしの前に姿を見せるな」
「は、はい……!」
玉響ははうようにして客間を飛び出し、あわただしく去っていった。
嵐のような時間が過ぎ去り、部屋にはしずけさだけが残された。けれど、まだ常磐様の怒りの余韻が、ぴりぴりと空気を震わせている。
わたしは、何も言えずに、ただ彼の大きな背中を見つめていた。
村では、誰もわたしを守ってなどくれなかった。石を投げられても、ひどい言葉をあびせられても、わたしはただ耐えるしかなかった。それが当たり前だと思っていた。
けれど、今。常磐様は、わたしのために、あんなにも怒ってくれた。
初めてだった。誰かに守られるなんて。自分のために、誰かが怒ってくれるなんて。
おどろきと、とまどいと、そして胸の奥からじんわりとわき上がってくる、あたたかい何か。その感情に名前をつけられないまま、わたしはただ、目の前の大きな背中から目が離せなかった。
常磐様は、ゆっくりと振り返ると、まだぼうぜんとしているわたしを見下ろした。その瞳には、もう怒りの色はなかった。ただ、少しだけ気まずそうな、ぶきような光がゆれている。
「……すまなかった。不快な思いをさせた」
「あ……いえ……」
わたしは、かろうじてそれだけを口にした。本当に言いたいことは、のどの奥でつかえて出てこない。
ありがとう、と。嬉しかった、と。そう伝えたいのに、言葉にならない。
ただ、胸の奥が、じんわりと熱い。それは、あの白い花が咲いた時のよろこびとは、また違う種類の熱だった。わたしの凍りついていた心が、また一つ、そのかたい殻を破って、やわらかな部分をのぞかせたような、そんな不思議な感覚だった。
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