
偽りの日常
「ただいま」
……チッ。 玄関の電気が、ついてない。 「気が利かねぇな」 深夜に響く夫・智也の冷え切った舌打ちで、ソファでうたた寝していた私の意識は叩き起こされた。 静寂を切り裂く、不機嫌な声。 高級ブランドのスーツに身を包んだ智也が、エントランスホールの大理石にカツ、カツ、と苛立たしげな靴音を響かせてくる。
「ご、ごめんなさいっ!疲れてて、つい……。すぐに夕飯の準備を――」 慌てて立ち上がろうとする私を、智也は虫ケラでも見るような冷たい視線で見下ろした。 「いらねぇよ。外で食ってきた」 「……」 「それよりさ、俺が稼いだ金で一日中ヌクヌク家にいて、何してたワケ? 家のことくらい、完璧にやれよな」
声に滲む疲労と、苛立ち。 ううん、違う。 それ以上に――私への、ドス黒い軽蔑の色が、そこにはあった。
これが、私の日常。 エリート商社マンの夫、都内のタワーマンション46階からの絶景、月90万円の家賃、ピカピカのドイツ製システムキッチン。 ハタから見れば、誰もが羨むような生活。 まるで雑誌「セレブ・ライフ」の1ページを切り取ったみたいな、完璧な空間。
――でも。 そのキラキラしたメッキの内側で、私の心は毎日、少しずつ、確実に……ガリガリと削られていく。 夫から吐き出される言葉の暴力は、まるで毒だ。じわじわと、確実に私の心を蝕んでいく。
「あのさぁ、俺の同僚の奥さん、元CAで料理教室まで通ってんだって。それに比べてお前は……」 「は? この程度の掃除で満足してんの? だからいつまで経っても成長しねぇんだよ」 「俺の稼ぎがなきゃ、お前なんて路頭に迷うだけだろ? 少しは感謝しろよな」
追い打ちをかけるように、姑の芳子からは毎週、悪意に満ちた電話がかかってくる。 「美咲さん? あなた、智也の稼ぎに寄生してるだけじゃないの」 「私がどれだけ苦労して、あの子を育ててきたと思ってるのよ!」 「いい大学出たのに、結局はなーんにもできないのねぇ。智也が可哀想だわ」
何か言い返そうものなら、10倍…いや、100倍になって返ってくる。 いつしか、私は自分の意見を言うことさえ、怖くなっていた。 鏡に映る自分の顔からは、日に日に生気が消えていく。 どうやって笑うんだっけ……?
時々、思い出す。 結婚する前の、私。 大学の文学部を出て、小さな出版社で編集者として働いてた。 お給料は安かったけど……それでも。 大好きな本に囲まれて、新人作家さんの原稿に胸を熱くして。 仕事帰りに友達とカフェで他愛もないお喋りをして、週末は美術館や映画館巡り。 ――あの頃の私は、ちゃんと笑えてた。
智也と出会ったのは、友人の結婚式。 エリートサラリーマンの彼は、当時の私には眩しすぎた。 猛烈なアプローチ。高級レストランに、海外旅行。 「君を、俺が幸せにする」 その言葉に、私はあっさりと心を奪われたんだ。
……今思えば、兆候なんていくらでもあったのに。 私の仕事を「所詮、零細出版社だろ?」と鼻で笑ったり。 私の友達を「レベル低い連中」と見下したり。 でも、あの頃のバカな私は、それすら「私のことを思って、高みを目指させてくれようとしてるんだ」なんて、都合よく解釈してた。 なんて、おめでたいんだろう。
その夜。 智也が脱ぎ捨てた高級ブランドのシャツを洗濯カゴに入れようとした、その時。 ふわり、と。 甘ったるくて、挑発的な……知らない女の香水の匂いがした。
ドクンッ!
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。 震える手で、智也のスーツのポケットを探った。 ……あった。 高級ホテルのレシート。見覚えのないレストランの領収書。 そして――小さく折りたたまれた、一枚のメモ。
『智也さん、今日も素敵でした♡』
女の、丸っこい字。 リビングで充電中の智也のスマホに、ふと目をやる。 その瞬間、画面が光り、ポップアップ通知が浮かび上がった。
『玲奈:智也さん、今日のホテル最高でした♡ 奥さんにはナイショですよ?』
――玲奈。 知らない、女の名前。 全身から、サーッと血の気が引いていく。 頭が真っ白になって、立っていられない。 私、は……その場に、へたり込んだ。 フローリングの冷たさが、現実を突きつけてくる。
夫は、不倫してる。
私が必死に支えてきたこの家庭は、一体なんだったの? 毎日の罵倒に耐えて、姑の嫌味に頭を下げ続けてきたのは、何のためだったっていうの?
誰にも、言えない。 親友の麻里の顔が浮かんだ。でも……こんな惨めな私、見せられない。 「結婚してから、なんか変わったよね」 心配してくれた友達の言葉が、今さらになって胸に突き刺さる。
お父さんにも、お母さんにも、言えない。 「立派な方と結婚できて、本当に良かった」 あんなに喜んでくれた両親に、こんなこと……。
冷たいフローリングの上で、私はただ震えることしかできなかった。 このタワマンの完璧な防音設備が、私の嗚咽を、完全に世界から遮断していく。 誰にも聞こえない。 誰にも届かない。 声にならない叫びだけが、私の喉を焼いた。
眠れない。 虚ろな目で、窓の外を眺める。 46階から見下ろす都会の夜景は、皮肉なほどに綺麗だった。 無数の光がダイヤモンドみたいに輝いてるのに……私の心だけが、深い深い闇の底に沈んでいく。
ピーポー、ピーポー… 遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。 どこかで、誰かが苦しんでる。 でも、私のこの苦しみは、誰にも気づかれない。 この高すぎる場所で、私は……たった独りぼっち。
その、時だった。 脳裏に、ふと声が響いた。
『アンタの人生、本当にこのままでいいわけ?』
問いかけてきたのは――結婚する前の、夢と希望でキラキラしてた頃の、私自身。 そうだ。 あの頃の私なら、こんな状況、絶対に許さなかった。 好きな本を読んで、自分の言葉を紡いで、友達と腹の底から笑い合ってた、あの頃の私。
――もう、やめよう。 誰かの言いなりになるのは。 夫の顔色を窺って、姑の嫌味に心を殺して生きるのは……もう、たくさんだッ!
ゴオッ、と。 私の中で、長い間眠っていた何かが、目を覚ます。
まずは、暴いてやる。 この偽りにまみれた日常の、真実を。 “玲奈”って女は、何者なのか。 夫の裏切りは、いつから始まっていたのか。 そして、私はこれから――どう生きていくのか。
心の奥底で生まれた小さな決意は、瞬く間に燃え盛る炎となって、私の全身を熱くする。 涙をぐいっと拭い、洗面台の鏡に映る自分の顔を、まっすぐに見つめた。
そこにいたのは、もう怯えるだけの女じゃない。 瞳に宿るのは、鋼のような、強い意志の光。 キュッと唇を引き締め、背筋を伸ばす。 失いかけていた“私”という人間の尊厳が、確かに戻ってくるのを感じた。
明日から、私の反撃が始まる。
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