
静かな反撃
感情的になったら負け。冷静に――まずはあの二人が一緒にいたっていう、動かぬ証拠を掴むのよ。
心の中で呪文のように唱え、私、美咲はまるで別人みたいに動き出した。昨夜の衝撃から一夜、不思議なくらい頭は冴えわたっている。……まるで、ずっと眠っていた本当の自分が、ようやく目を覚ましたって感じ。
皮肉なことに、役立ったのは家計簿だった。智也から「金の管理もできねぇのか」って散々罵倒されながらも、必死につけてきた記録。そこに、あの男の行動パターンを暴くカギが隠されてたなんてね。
ダイニングテーブルに過去三ヶ月分のクレカ明細をぶちまけ、パソコンを起動する。表計算ソフトに、智也の支出を片っ端から叩き込んでいく。ああ、そういえば……出版社にいた頃、データ分析なんて仕事もしてたっけ。こんなクソみたいな形で、昔のスキルが役立つなんて。
すぐに、醜悪なパターンが浮かび上がってきた。
毎週金曜日の夜。そこだけ決まって、高級レストランやホテルの名前がずらり。
「リッツカールトン東京」「帝国ホテル」「グランドハイアット」……。
金額もおかしい。一人じゃ絶対に使い切れない額だ。ディナーコース2名分、シャンパン、そしてご丁寧にホテルの宿泊費まで。
スマホのカレンダーを開く。智也が「会議」とだけメモしている金曜の夜と、明細の高額出費が見事に――ッ、完全に一致した。
午後9時から始まる会議が、朝まで続くわけないだろ。
……間違いない。これは、あの女との密会日だ。
必要なのは、ツーショット写真。それが何よりの武器になる。
もし離婚調停になったら……ううん、絶対にしてやる。その時、慰謝料を請求するための決定的な証拠。感情論じゃ、あの男には勝てない。法廷で通用する『事実』だけを、一つ、また一つと積み上げるんだ。
智也の車のカーナビ履歴を漁ると、頻繁に訪れている場所がヒットした。
六本木ヒルズ内の高級ラウンジ「スカイテラス」。
……平日の夜に、何度も。
ここが、二人のアジトの一つってワケね。
決意は、震える脚を前に進ませる。
金曜の夕方、智也から「今日は遅くなる」なんて白々しい連絡が来た時、私はもう六本木ヒルズに向かっていた。
52階にある「スカイテラス」。都心を見下ろす、なんて場違いな場所だろう。入口で一瞬、心臓が氷水で締め付けられたみたいに縮み上がる。
でも、ここで帰るなんて選択肢は、もう私の中にはない。
安物のワンピースに、取ってつけたようなメイク。できるだけ壁の染みになれるように……。震える手で、重いドアハンドルを握った。薄暗い店内。流れるジャズ。平日の夜だってのに、楽しそうな人間で溢れかえっている。
でも、そんな感傷は、奥の席に目的の二人を見つけた瞬間、霧散した。
……いた。
智也が、若い女の髪を、慈しむように撫でている。
楽しそうに、笑いかけている。
私には、一度だって見せたことのない、とろけるように甘い表情で。家では決して見せることのない、愛情に満ちた眼差しで。
女の方は、甘ったるい声で智也に媚びを売っている。
なによ、あれ……ッ! 見ているだけで吐き気がした。
あれが、玲奈……。
玲奈は、想像していたよりもずっと若かった。25歳……まだ、どこか学生みたいな幼さすらある。なのに、その仕草の一つ一つには、計算され尽くした色気が滲んでいた。智也の腕に、これみよがしに自分の胸を押し付けて、上目遣いで見つめる。男を転がす術を、完璧に心得ている顔だ。
「智也さんって、本当に素敵……。お仕事もできるし、包容力もあるし」
「君みたいな子に言われると、嬉しいな」
聞こえてきた会話に、腹の底から黒い怒りがせり上がってくる。
『包容力』?
……笑わせないで。
家では暴言を吐き散らすだけの男の、どこにそんなものがあるっていうの!
玲奈が持っているのは、高級ブランドのバッグ。アクセサリーも、きっと一流品。全部、智也が買い与えたモノなんだろう。私が「家計を切り詰めなきゃ」って、1円でも安いスーパーを探し回っている、まさにその瞬間に、夫は愛人に贅沢三昧させていたんだ。
怒りで体がわなわなと震えるのを、奥歯を噛みしめて必死に抑える。少し離れた席に、幽霊みたいに腰を下ろした。
「お一人様ですか?」
ウェイターの声に、ドクン、と心臓が跳ねる。
「……友人を、待ってます」
嘘をついて、俯いてスマホをいじるフリ。その画面の向こうで、あの二人を睨みつけていた。
智也は、完全に油断しきっている。妻がこんな場所にいるなんて、夢にも思っていないんだろう。彼の意識の中に、もう『妻』の存在なんて、一ミリもないんだ。
二人は、どこからどう見ても恋人同士だった。玲奈がスマホの画面を見せると、智也が大声で笑う。ぴったりと体を寄せ合う姿。
――カシャッ。
自分のスマホで、衝動的にシャッターを切る。でも、ダメだ。距離が遠すぎて、顔がぼやけてしまう。もっと……もっと近づかないと……!
一時間ほど経っただろうか。やがて二人が席を立つ。玲奈が化粧直しに立った隙に、智也が会計を済ませる。
その時だった。
智也がジャケットのポケットから財布を取り出した、その拍子に――ひらり、と一枚の紙片が床に舞い落ちた。
レシート……!
息を呑む。絶好のチャンスだ。でも、私が立ち上がれば、気づかれる。どうしよう……!
「あの、お客様……」
声をかけるより早く、一人の青年店員が、こともなげにそれを拾い上げた。
――ああ、もうッ!
内心で舌打ちした。せっかくの証拠が……。
ところが。
彼は智也たちを呼び止めず、まっすぐ、私のテーブルにやって来た。
「……これ、お探しではないですか?」
切れ長の瞳。少し茶色がかった髪。名札には『蓮』とある。
彼がそっとテーブルに置いたのは、ホテルのレシートだった。二人が今しがた使ったであろう、あのホテルの。「グランドハイアット東京」の文字。今日の日付。そして……部屋番号まで、くっきりと記載されている。
「ど、うして……私に……?」
困惑する私に、彼は静かな、だけど芯のある声で言った。
「見ていられなかったので。……何か、お困りでしたら」
その瞳は、まるで私の心を、状況のすべてを見透かしているみたいだった。
蓮、と名乗った彼は、そう言って一枚のメモを置いていく。そこには彼の連絡先と、『Chronos\_Gate7』という、謎の文字列が記されていた。
「これは……?」
問いかける間もなく、蓮はもう他のテーブルへ向かっている。何事もなかったかのように、完璧な店員の顔で。
『Chronos\_Gate7』……クロノス・ゲート、セブン? 時の、門……?
一体、どういう意味? なんで、彼は私に……?
予期せぬ協力者と、謎の言葉。戸惑いながらも、直感が告げていた。これが、反撃の狼煙になる、と。
強く握りしめたレシートは、夫の裏切りを証明する、熱い証拠。
今夜は、大きな収穫があった。
……だけど、これはまだ始まりに過ぎない。
私の静かな、けれどあまりにも熾烈な反撃が、今、幕を開けた。
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