
色褪せたスケッチブック
「……以上が、新ブランド『Lueur(リュール)』のコンセプトと、メインビジュアルになります。ご清聴ありがとうございました」
パチパチパチ、と乾いた拍手が会議室に響く。スポットライトを浴びるように、プロジェクターの光を一身に受けながら、木村沙織は完璧な笑顔で優雅に一礼した。
まただ。
また、私の時間は、彼女の輝かしい瞬間のために消費されていく。
会議室の末席。私は、まるで存在しないかのように息を殺しながら、テーブルの下で強く、強く拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込む痛みだけが、かろうじて私をこの場に繋ぎ止めている。
沙織が指し示したスクリーンに映し出されているのは、私が一週間前、徹夜で完成させたパッケージデザインだ。柔らかな光の粒子が、繊細な曲線を描きながらロゴを包み込むデザイン。私が、この手で生み出したもの。
もちろん、今となっては、それは「木村沙織の作品」として満場の拍手を浴びている。彼女は私のデザインを巧みに取り込み、自分の企画として再構成して見せた。私が練り上げたコンセプトは、彼女の流暢な言葉で語られ、私が描いたラフスケッチは、彼女の手柄としてスクリーンに映し出される。
「素晴らしいじゃないか、木村くん!特にこの光の表現がいい。ブランド名の『Lueur』、つまり『微かな光』というテーマを実によく捉えている」
「ありがとうございます。光が持つ、優しさや希望といったイメージを表現したいと思いました」
違う。その光は、そんなありきたりな言葉で語られるものじゃない。それは、もっと、こう……。
言いかけて、私は唇を噛んだ。
言えるはずがない。
ここで私が「それは私が考えたものです」と叫んだとして、何になる?
証拠はどこにもない。あるのは、私の手元にあるスケッチブックの、原型となったラフ画だけ。そんなもの、後から描いたと言われればそれまでだ。
結局、面倒な人間だと思われるのがオチ。空気が読めず、優秀な同期に嫉妬する、痛い女。そうやってレッテルを貼られて、この会社での居場所をさらに失うだけだ。
「……佐藤さん、どうしたの?顔色悪いよ?」
隣の席の後輩が、心配そうに私の顔を覗き込む。私は慌てて、曖昧に笑った。
「ううん、なんでもない。ちょっと、寝不足で」
「そっか。でも、沙織さんのデザイン、すごいですよね。やっぱりエースは違いますね」
無邪気な賞賛の言葉が、ナイフのように私の胸を抉る。
私はただ、「そうだね」と力なく頷くことしかできなかった。
会議が終わると同時に、私は誰にも声をかけず、逃げるように会社を飛び出した。
向かったのは、オフィスから少し歩いた路地裏にある、私だけの避難場所。カフェ「木漏れ日」。
古びた木のドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴る。香ばしいコーヒーの匂いに包まれると、ささくれだった心が少しだけ癒される気がした。
いつもの窓際の席に座り、スケッチブックとペンケースをテーブルに広げる。何か新しいものを生み出さなければ。このままじゃ、私は私でなくなってしまう。
そう思うのに、白いページを前にすると、指が鉛のように重くなる。
頭の中に渦巻くのは、会議室での沙織の得意げな顔と、同僚たちの称賛の声。そして、何も言えなかった自分への、どうしようもない自己嫌悪。
「……はぁ」
深い溜め息が、静かな店内に落ちた。
その時だった。
「そんな死んだ魚みたいな目をしてたら、コーヒー淹れる気も失せるな」
不意に、頭上から男の声が降ってきた。
顔を上げると、見慣れない店員が、無表情で私を見下ろしていた。歳の頃は、私より少し上だろうか。日に焼けた肌に、色素の薄い髪。Tシャツからのぞく腕は、意外なほどしっかりしている。
「……は?」
突然の、あまりにも失礼な物言いに、私は言葉を失った。
この人、誰? いつもいる、人の良さそうなマスターじゃない。
男は私の反応を気にも留めず、私のスケッチブックと、その暗い表情を無遠慮に一瞥した。
「ま、別にいいけど。撮る価値もないってだけ」
撮る?
意味が分からず眉をひそめる私に、男は「カメラマンなんだよ」とぶっきらぼうに言い放ち、興味を失ったようにカウンターの中に戻っていく。
なんなの、あの人。
失礼にもほどがある。腹が立つ。ムカつく。
なのに、私は何も言い返せなかった。
「撮る価値もない」
その言葉が、今の自分に突き刺さる。
デザインを盗まれ、反論もできず、ただ打ちひしがれているだけの女。そんなものに、価値なんてあるはずがない。
結局、その日はコーヒーを飲む気にもなれず、私は重い足取りでオフィスへと戻った。
自分のデスクに戻ると、隣の席の同期が「亜美!大変!」と駆け寄ってきた。
「さっき、部長に呼ばれて……」
嫌な予感がした。
私と沙織は、部長室に呼び出された。
上司は、見たこともないほど興奮した様子で、一枚の企画書を机に叩きつけた。
「ビッグニュースだ!国内最大手の化粧品会社『Vénus(ヴェニュス)』が、新ブランドの立ち上げで、大々的なデザインコンペを開催する!これは、我が社にとって千載一遇のチャンスだ!」
社運を賭けた、一大プロジェクト。
ゴクリと、喉が鳴った。
「そこで、この最重要プロジェクトのリーダーを、君に任せたい。木村」
やっぱり。
そう思った。当然の采配だ。今日のプレゼンだって、あれだけ絶賛されていたのだから。
沙織は「はい!」と力強く返事をし、その美しい顔を自信に満ちた輝きで満たした。
これで、私の役目は終わり。
早くこの場から解放されたい。そう思った、その時だった。
「そして佐藤」
不意に、私の名前が呼ばれた。
「お前は、木村のアシスタントとして、しっかりサポートしてやってくれ」
時が、止まった。
アシスタント? 私が、沙織の?
隣に立つ沙織が、私にだけ見えるように、唇の端を歪めて勝ち誇った笑みを浮かべたのが見えた。
その瞬間、頭の中が真っ白になる。
悔しいとか、悲しいとか、そんな感情さえ湧いてこない。
ただ、目の前が、ゆっくりと暗くなっていく。
「聞いてるのか、佐藤」
「……はい」
上司のいらだった声に、私はかろうじて返事をした。
拒否も、反論も、できるはずがない。
私は、ただ頷くことしかできなかった。
これから始まる地獄のような日々を思い、目の前が真っ暗になる。
私の光は、またしても彼女に奪われ、私はその影を、ただ黙って歩いていくだけなのだ。
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