
ファインダー越しの反逆
沙織のアシスタントとしての日々は、想像を絶する屈辱の連続だった。
「佐藤さん、この資料、50部コピーしといて」
「佐藤さん、クライアントに送るお茶菓子、買ってきてくれる?センスいいやつね」
「佐藤さん、この会議室、散らかってるから片付けといて」
コンペに関する業務は一切与えられず、私が命じられるのは雑用ばかり。デザインに関する意見を求められることは一度もなく、沙織は私の存在を、まるで便利な家政婦か何かのように扱った。
社内の誰もが、それを「当然のこと」として受け入れている。エースである沙織を、落ちこぼれの私がサポートする。その構図に、誰も疑問を抱かない。私が何か言えば、それは単なる「嫉妬」や「足手まといの言い訳」にしか聞こえないだろう。
悔しさを押し殺し、感情を無にすることで、私はかろうじて自分を保っていた。思考を止めれば、惨めさも感じない。私はロボットだ。命令されたことを、ただ正確にこなすだけの。
そんなある日の昼下がり。大量の資料整理を終え、息が詰まりそうになった私は、再びあのカフェ「木漏れ日」へと逃げ込んだ。カラン、と鳴るベルの音だけが、今の私を人間として扱ってくれる唯一の存在のように感じられた。
いつもの席に座り、スケッチブックを開く。だが、やはり何も描けない。白いページは、私の空っぽな心を映す鏡のようだ。
「……まだいたんだ、死んだ魚の目」
忌々しい声に顔を上げると、カウンターの中から例のカメラマン、奏太が呆れたような顔で私を見ていた。
「……あなたには関係ないでしょう」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。普段の私なら、きっと愛想笑いでごまかしていたはずだ。だが、連日のストレスで、私の心の何かが、少しずつ麻痺してきているのかもしれない。
「関係なくはないな。そんな顔の客がいると、店の空気が澱む」
「……っ!」
カチン、と頭の奥で何かが切れる音がした。
私は勢いよく立ち上がり、彼を睨みつけた。
「あなたに、私の何がわかるんですか!」
声が、震える。一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。
「毎日毎日、バカにされて、雑用ばっかり押し付けられて……! 私がどんな思いで……っ。デザインを盗まれても、アシスタントにされても、何も言えずに……! そんな私の気持ちが、あなたなんかにわかってたまるもんですか!」
そうだ。
悔しかった。悲しかった。腹が立って、どうしようもなかった。
必死で心の奥底に沈めていた感情が、濁流のように溢れ出す。涙が視界を滲ませる。
目の前の男は、私の剣幕に驚くかと思いきや、その無表情を少しも崩さなかった。
ただ、静かに。
ゆっくりと、首から下げていたカメラを構えた。
カシャッ。
静かな店内に、乾いたシャッター音が響く。
「……は?」
涙で濡れた目で彼を見つめると、奏太はカメラの液晶画面を私に向けた。
「やっと、いい顔になった」
そこに映っていたのは、鬼のような形相で、涙を流しながら何かを叫んでいる、私の顔だった。
ぐちゃぐちゃで、醜くて、お世辞にも綺麗とは言えない。
なのに。
その写真の中の私は、確かに「生きて」いた。
瞳の奥に、消えかけたはずの、確かな意志の光が宿っている。
それは、私がずっと昔に、スケッチブックの中に置き忘れてきたはずの、本当の私の顔だった。
「……これが、私……?」
「ああ。死んだ魚の目より、よっぽど撮る価値がある」
奏太はそう言うと、カメラを下ろし、私に向かって真っ直ぐに言った。
「君を撮りたい。俺のモデルになってくれ」
あまりに唐突な申し出に、私は言葉を失った。
モデル? 私が?
混乱する私を置いて、彼は「気が向いたら連絡して」と、一枚の名刺をテーブルに置いた。そこには「高橋奏太」という名前と、電話番号だけが素っ気なく印刷されている。
その日の夕方。
私はまだ、奏太の言葉とあの写真の衝撃から抜け出せないまま、重い足取りでオフィスに戻った。すると、コンペの定例会議が長引いているらしく、会議室から不穏な空気が漏れ伝わってくる。
「……ですから、この方向性では、Vénus社の先進的なイメージにそぐわないと、先方はおっしゃっているんです」
「しかし、木村くんのこの案は、我が社としても……」
恐る恐る中を覗くと、沙織が青い顔で立ち尽くしていた。クライアントであるVénus社の担当者が、彼女の提案したデザイン案に、明確な「ノー」を突きつけている場面だった。
「エレガントなだけでは、今の時代、響きません。我々が求めているのは、その先にある『意志の強さ』なんです。……確か、以前の資料の中に、そういうコンセプトのスケッチがありませんでしたか? 光の中に、もっとこう、芯のあるような……」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
それって、まさか。
私が一番最初に提出して、沙織に「地味だから」と一蹴された、あのデザイン案のこと……?
クライアントの言葉に、沙織の顔から血の気が引いていくのがわかった。彼女は、あのデザイン案を、とうの昔に破棄していたのだ。
「……さ、佐藤さん!」
不意に、上司が私の方を振り返った。
「君、あの時のデータ、まだ持ってるか!?」
会議室にいる全員の視線が、一斉に私に突き刺さる。
沙織の、焦りと憎悪に満ちた視線。
上司の、期待と苛立ちが混じった視線。
そして、クライアントの、興味深そうな視線。
私は、ゴクリと息を飲んだ。
テーブルの下で、震える指を、強く、強く握りしめる。
奏太に渡された名刺の、角の硬い感触が、ポケットの中で確かな存在感を主張していた。
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