
私には、幸せになる資格がない
夕暮れのざわめきが、古い図書館の窓ガラスを微かに揺らしている。
閉館作業を終えた日向 栞(ひなた しおり)は、カウンターの隅で一人、今日の貸出記録を整理していた。規則正しく並んだ数字の列だけが、今の彼女にとっての秩序であり、心の安らぎだった。
「日向さん、お疲れ様。先、失礼しますね」
「お疲れ様です」
パートの学生が、楽しげな声で帰っていく。きっと、この後は友人との食事だろうか。栞は、誰に言うでもなく、小さくおじぎを返した。同僚たちはもう、華やいだ声で「お疲れ様」と言い合い、駅前のカフェや居酒屋へと消えていく。その輪の中に、栞の居場所はなかった。
本棚の間を、最後の見回りに歩く。返却されたばかりの本を棚に戻していると、ふと、恋愛小説のコーナーで、若いカップルがひそひそと話しているのが目に入った。楽しそうに笑い合う二人。その光景は、まるで遠い国の映画のワンシーンのようだった。栞は、彼らの邪魔をしないように、そっとその場を離れた。
かつては、自分も、あんな風に笑い合える未来を夢見ていた時期があった。大学で児童文学を学び、いつかは自分で物語を書いてみたい、なんて。けれど、卒業を目前にした冬、父の会社が倒産し、父が、すべての責任を背負うかのようにあっけなく逝ってしまってから、彼女の時間は止まったままだった。
カウンターに戻ると、閉館したはずの入り口のそばに、一人のおばあさんが困ったように立ち尽くしていた。
「どうかなさいましたか?」
栞が駆け寄ると、おばあさんは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね、閉館とは分かっていたのだけど。どうしても、思い出せなくて。昔、子供の頃に読んだ絵本を、孫に読んで聞かせたくてね」
おばあさんは、おぼろげな記憶を頼りに、物語の内容を話してくれた。森に住む、臆病なユニコーンの話。
「大丈夫ですよ。一緒に探しましょう」
栞は、にっこりと笑った。本の検索システムでは、すぐに見つからなかった。けれど、栞は諦めなかった。古い貸出カードの記録を丁寧に調べ、普段は入らない地下の書庫へと向かう。埃っぽい空気の中、たくさんの本の背表紙を一つ一つ指で追っていく。
三十分ほど経っただろうか。ついに、色褪せた背表紙の片隅に、そのタイトルを見つけた。
「これじゃありませんか?」
カウンターに戻り、その絵本をおばあさんに見せると、彼女は「まあ!」と顔を輝かせ、しわの刻まれた手で、優しくその表紙を撫でた。
「ありがとう、お嬢さん。本当に、ありがとう。あなた、とても優しいのね。物語のお姫様みたいに、きっと、素敵な幸せが待っているわ」
その言葉に、栞は、ありがとうございます、と頭を下げることしかできなかった。胸の奥が、ちくりと痛む。お姫様なんて、とんでもない。私にあるのは、物語のような素敵な未来ではなく、ただ、目の前の現実だけだ。
図書館を出て、アパートへの道を歩く。商店街のショーウィンドウには、幸せそうな家族のディスプレイ。手をつないで歩くカップルの、楽しげな笑い声。そのすべてが、まるで違う世界の出来事のように、栞の横を通り過ぎていく。羨ましい、とは思わない。もう、そんな感情さえ、心の奥底で埃をかぶっていた。
アパートのドアを開ける前に、栞はスマートフォンの履歴から、一つの番号を呼び出した。療養型病院に入院している、母だった。
『もしもし、栞?』
「お母さん、私。どう、変わりない?」
『ええ、大丈夫よ。今日は、リハビリで少しだけ長く歩けたの。それより、あなたは? ちゃんと、食べてるの?』
「もちろん。さっきも、同僚とパスタを食べてきたところだよ。美味しかった」
嘘だ。今から食べるのは、コンビニで買った、三百円のお弁当だ。
『そう、ならいいのだけど……。ごめんね、栞。お父さんのこと……』
「お母さん」
栞は、母の言葉を遮るように、努めて明るい声を出した。
「お母さんは、何も気にしないで。自分の体のことだけ、考えて。私も、元気にやってるから。本当に、大丈夫だからね」
電話を切った後、栞は、その場にしばらくうずくまった。大丈夫なわけ、ない。本当は、苦しくて、息が詰まりそうで、今すぐすべてを投げ出して逃げ出したい。けれど、そんな弱音は、口に出すことなんてできなかった。
古いアパートのドアを開けると、ひやりとした空気が栞を迎えた。
蛍光灯のスイッチを入れると、小さなワンルームが白々しく照らし出される。テーブル、ベッド、小さな本棚。それだけで部屋はもう、いっぱいいっぱいだった。
コンビニで買ったお弁当をテーブルに置き、くたびれたトートバッグから一通の封筒を取り出す。今月の返済額が記載された、見慣れた督促状。
その数字を見るたびに、心臓が氷の指で掴まれたように、きゅうっと冷たくなる。
パソコンを開き、家計簿アプリを立ち上げる。食費、光熱費、家賃、そして返済。切り詰めて、切り詰めて、なんとか用意できるわずかな金額。このペースでは、すべてを返し終える前に、自分の人生が終わってしまう。
私なんて、誰かに心から愛される価値はない。
そもそも、誰かと食卓を囲むような、温かい生活を望むこと自体が、身の丈に合わない贅沢なのだ。
ふと、本棚に立てかけてある、一枚の写真が目に入った。
大学の卒業式の日に、父と二人で撮った写真だ。少し照れくさそうに、けれど、誇らしげに笑う父。その隣で、希望に満ちた顔で笑う、自分。
あの頃の父は、まだ、元気だった。小さな工場を経営し、決して裕福ではなかったけれど、いつも優しく、栞を励ましてくれた。「栞は、父さんの自慢の娘だ」それが、父の口癖だった。
その父が、最後に遺した、途方もない額の借金。
思い出の写真が、今は、鉛のように重い。
栞は、写真をそっと伏せると、電子レンジのボタンを押した。温められたお弁当だけが、この部屋で唯一の温もりだった。
テレビをつけると、人気の俳優が主演する恋愛ドラマが流れていた。ヒロインが、運命的な出会いを果たし、恋に落ちていく。キラキラとした、おとぎ話。
栞は、無表情でそれを見つめ、やがて、そっとテレビを消した。
ため息が、一つ、部屋の空気に溶けて消える。
ただ、今日を生きる。明日を生きる。
それだけで、精一杯。そう自分に言い聞かせながら、栞は、コンビニの袋から取り出した木の割り箸を、静かに割った。
お弁当の、ご飯の味は、よく分からなかった。
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