
契約は冷たいドア越しに
# 第2話 契約は冷たいドア越しに
色も、味も、よく分からないご飯を、栞はただ、義務のように口に運んでいた。
テレビもつけず、音楽も流れない、静かな部屋。時折、古い冷蔵庫が、ううんと低い唸りを上げるだけ。外は、いつの間にか冷たい雨が降り始めているようだった。窓を叩く、か細い雨音が、この部屋の静寂を一層、際立たせる。
この静けさが、今の栞にとっては、当たり前の日常だった。
明日も、仕事だ。早く食べて、早く寝てしまおう。そう思った、その時だった。
コン、コン。
静寂を破るように、控えめな、けれど芯のあるノックの音が響いた。
びくりと、栞の体が跳ねる。箸が、手から滑り落ち、床に乾いた音を立てた。
誰?
こんな雨の夜に、誰だろう。栞は首を傾げる。このアパートに越してきてから、来客など一度もなかった。新聞の勧誘は、昼間に来るはずだ。セールス? いや、それにしては、あまりに時間が遅い。
まさか。
最悪の想像が頭をよぎり、栞は息を呑んだ。ドアの向こうに、あの無慈悲な催促の言葉を並べる男たちの姿がちらつく。心臓が、嫌な音を立てて速くなる。どうしよう。居留守を使おうか。でも、もし、本当にあの人たちだったら。ドアを蹴破られるかもしれない。そんなことをされたら、大家さんにも、隣の部屋の人にも、迷惑がかかる。
恐怖に震える足で、栞は、おそるおそるドアに近づいた。音を立てないように、そっと、ドアスコープを覗き込む。
そこに立っていたのは、想像とは全く違う人物だった。
上質な黒いスーツに身を包んだ、背の高い男性。街灯の頼りない光の下でも分かるほど、彫刻のように整った顔立ち。けれど、その黒曜石のような瞳は人形のように冷たく、人間的な感情というものが一切感じられなかった。
少なくとも、借金取りのようには見えない。
栞は、少しだけ安堵し、ドアチェーンをかけたまま、ほんの少しだけ、ドアを開けた。
「……どちら様、でしょうか」
自分でも驚くほど、か細い声が出た。
「久遠 彰(くおん あきら)と申します」
低く、よく通る声だった。その声には、有無を言わせぬ不思議な圧があった。
「日向 栞さんで、お間違いないですね」
「は、はい……」
久遠 彰。その名前に聞き覚えはない。栞が戸惑っていると、彼はまるで天気の話でもするかのように、本題を口にした。
「単刀直入に申し上げます。私と、結婚していただきたい」
思考が、止まった。
今、この人は、何と言ったのだろう。けっこん? 結婚? 誰が、誰と?
あまりに突拍子のない言葉に、栞は声も出せずに固まる。夢でも見ているのだろうか。それとも、これは、手の込んだ新しい詐欺か何かだろうか。
「……あの、人違いでは、ありませんか?」
ようやく、それだけの言葉を絞り出す。
「いいえ。日向 栞さん。24歳。市立図書館勤務。間違いありません」
彰は、淀みなく答えた。
「何かの、冗談、ですよね……?」
「俺は、冗談に時間を割くほど暇ではありません」
ぴしゃり、と否定され、栞は言葉に詰まる。
「そんな……。私、あなたのこと、知りません。どうして……」
「ええ。俺も、あなたのことを今日まで知りませんでした。ですが、問題ありません。これは、恋愛結婚の申し込みではありませんので」
そう言って、彼は続けた。
「もちろん、本当の結婚ではありません。一年間、俺の妻として籍を入れてもらうための、契約です」
契約結婚。
ドラマや小説でしか聞いたことのない単語が、目の前の男の口から紡がれる。その声は、あまりにも現実味がないのに、不思議と、耳にはっきりと届いた。
「あなたには、メリットしかありません。お父様が遺された債務は、俺が全額肩代わりします。契約期間満了の際には、慰謝料として十分な額をお支払いすることもお約束します」
「な……っ」
なぜ、私の借金のことまで。どうして、この人は私のことを。
混乱する頭で、栞は必死に言葉を探した。
「……どうして、私なんですか。そんな、大金……見ず知らずの、私に……」
「見ず知らず、ではありません。あなたの身辺は、調査済みです」
彰は、感情の起伏のない声で答える。
「都内であなたの境遇に近い候補者は1257名。その中で、年齢、職業、社会的背景をスクリーニングし、最終候補は3名でした。あなたは、その中で最もリスクが低い」
「リスク……?」
「ええ。身寄りが少なく、交友関係も極端に狭い。つまり、この契約の情報が外部に漏洩する可能性が最も低いと判断しました。あなたは、俺の目的を果たす上で、最も合理的で、安全なパートナーだ。……それだけです」
合理的。安全なパートナー。まるで、モノの性能を評価するような言葉だった。
けれど、その言葉は不思議と、今の栞にはすんなりと胸に落ちた。
そうだ。私には価値なんてない。この人にとって、私はただ、都合のいい条件が揃っただけの、安全なモノなのだ。
それで、いいじゃないか。この泥沼のような毎日から抜け出せるなら。
いや、でも、そんなうまい話が。
栞の心の中で、わずかな希望と、圧倒的な不信感が渦を巻く。
彰は、そんな栞の葛藤を見透かしたように、一枚の分厚い契約書を、ドアの隙間から差し入れた。
「内容は、弁護士に確認していただいて構いません。費用はこちらで持ちます。ですが、条項の変更には応じかねる」
その言葉は、彼の提案が、交渉の余地のない、決定事項であることを示していた。
「……」
「よく、お考えください。返事は、明日の夜、また伺います」
それだけ言うと、彼は何の余韻も残さず、高級な革靴の音だけを残して去っていった。
一人残された部屋で、栞は差し出された契約書を握りしめる。
温かかったはずのお弁当は、もうすっかり冷え切っていた。その冷たさが、まるで自分の人生そのもののように思えた。
栞は、テーブルの上に、その分厚い紙の束を広げた。
難解な法律用語が、びっしりと並んでいる。けれど、その内容は、驚くほど、誠実だった。栞のプライバシーを守る条項。契約期間中の生活費の保証。そして、契約終了後の、守秘義務と、慰謝料の額。すべてが、ビジネスの書類として、完璧に整えられていた。
その完璧さが、逆に、この話が現実であることを、栞に突きつけてくる。
目の前には、二つの道。
一つは、このまま、何も変わらない、色褪せた日常を、借金に追われながら生きていく道。
もう一つは、この怪しげな提案に乗り、自分の魂を売る代わりに、すべてを手に入れる道。
それは、悪魔の囁きか、それとも、神様が気まぐれに垂らした一本の蜘蛛の糸か。
栞は、ただ呆然と、その分厚い紙の束を見つめることしかできなかった。
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