
計算外の熱と、不器用な看病
# 第5話 計算外の熱と、不器用な看病
あの日、硝子の舞台で偽りのワルツを踊ってから、一週間が過ぎた。
彰との奇妙な同居生活は相変わらずで、私たちはまるで同じ家の中に住む、二人の他人だった。彼は朝早くから夜遅くまで仕事に行き、栞は図書館とあのマンションを往復するだけ。豪華なリビングで交わす言葉は、天気の話か、業務連絡のような当たり障りのないものだけだった。
パーティーで垣間見せた、あの熱を帯びた瞳。あれはやはり、彼の完璧な演技だったのだ。栞はそう自分に言い聞かせ、波立ちかけた心を無理やり静めた。これは契約。それ以上でも、それ以下でもない。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
図書館の古い暖房は効きが悪く、栞は制服のカーディガンの下で、小さく身震いをした。頭の奥が、ずきりと鈍く痛む。喉も、少しだけ、いがらっぽい。風邪の、ひき始めかもしれなかった。
けれど、休む、という選択肢はなかった。ただでさえ、契約社員という不安定な身の上だ。自己管理ができない、と判断されるわけにはいかない。栞は、カウンターの隅で、にこやかな笑顔の仮面を貼り付けた。
午後になって、一人の小さな男の子が、絵本コーナーで泣き出してしまった。母親らしき女性が、困り果てた顔で「ごめんなさい、静かにしなさい」と叱っているが、男の子の泣き声は大きくなるばかりだ。
栞は、そっと、その親子に近づいた。
「どうしたの?」
しゃがんで、男の子と目線を合わせる。母親が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、お気に入りの絵本が、貸し出し中で……」
見ると、男の子は、人気のキャラクターものの絵本を指さしていた。
「そっか。残念だったね」
栞は、泣いている男の子に、優しく語りかけた。
「でもね、図書館には、もっともっと、面白い本がたくさんあるんだよ。君だけのお気に入りを、一緒に探してみない?」
栞は、男の子の手を取り、少し薄暗い、古い絵本が並ぶ棚へと案内した。そして、自分が子供の頃に大好きだった、一冊の絵本を抜き出す。それは、小さな星が、自分の光を見つける旅に出る物語。
栞が、ゆっくりと、その物語を読んで聞かせると、男の子は、いつの間にか泣き止み、きらきらとした瞳で、絵本の世界に引き込まれていた。
「……ありがとうございます。本当に、助かりました」
母親が、何度も、頭を下げる。栞は「いいえ」と微笑みながら、その親子を見送った。子供の笑顔は、好きだ。けれど、その母親の、心からの感謝の言葉が、なぜか、今の栞には少しだけ、重かった。
仕事を終え、マンションに帰る頃には、雨は、さらに強くなっていた。
傘を差していても、足元は、すっかり濡れて冷たい。悪寒が、背筋を走る。頭の痛みも、ひどくなっていた。
早く、帰って、横にならなければ。
震える手で、マンションのカードキーをかざす。自動ドアを抜け、一歩、ロビーに足を踏み入れた、その瞬間。
ぐらり、と、視界が大きく揺れた。立っていられない。大理石の壁に手をつこうとしたが、指先は、虚しく、空を切った。
冷たい床に、体が叩きつけられる。薄れていく意識の中で、栞は、ただ、誰にも迷惑をかけたくない、と、それだけを、考えていた。
どれくらい、時間が経ったのだろう。
遠くで、誰かが、自分の名前を呼んでいる。
「栞、しっかりしろ、栞」
その声に導かれるように、ゆっくりと、目を開ける。
ぼやけた視界に映ったのは、見たこともないほど、狼狽した顔の、彰の姿だった。
「……あきら、さん?」
「気がついたか。よかった……」
彰は、心の底から安堵したように、息を吐いた。彼が、こんなにも、感情を露わにするのを、初めて見た。
次の瞬間、栞の体は、ふわりと、宙に浮いた。彰が、彼女を、横抱きに抱え上げたのだ。
「え……っ」
「黙っていろ。ベッドに運ぶ」
彼の腕は、驚くほど、がっしりとしていた。スーツ越しに伝わる、彼の体温が、熱い。
ベッドに、そっと、降ろされる。彰は、ポケットから、小さな機械を取り出すと、それを、栞の額にかざした。
「38度9分。ひどい熱だ。今日は、絶対に、休め」
「でも……」
「仕事と健康、どちらが重要か、合理的な判断もできないのか」
彼の声は、いつも通り、冷たかった。けれど、その瞳の奥には、隠しきれない、心配の色が浮かんでいた。
「寝ていろ。いいね」
それは、有無を言わせぬ命令だった。
彰は、一度、部屋を出て行ったが、しばらくして、コンビニの袋をいくつもぶら下げて、戻ってきた。
「とりあえず、必要そうなものを買ってきた」
そう言って彼がテーブルに並べ始めたのは、冷却シート、スポーツドリンク、ゼリー飲料、そして、なぜか、驚くほど、大量のプリンだった。
「プリンは、栄養価が高く、喉越しもいい。病人食として、合理的だと判断した」
真顔でそう説明する彰の姿に、栞は、思わず、ふふっと、笑ってしまった。
「……何がおかしい」
彰が、少しだけ、不機嫌そうに眉を寄せる。
「いえ、すみません。ありがとうございます」
慌てて謝ると、彼は、気まずそうに、視線を逸らした。
「……体調管理も、契約のうちだ。あなたが倒れれば、俺の計画に支障が出る」
そうだ。彼は、私の体を心配しているわけじゃない。彼の計画の「駒」である私を、メンテナンスしているだけ。
分かっているのに。頭では、痛いほど、理解しているのに。
胸の奥が、きゅうっと、甘く、痛んだ。
彰は「何かあれば、AIコンソールで呼べ」とだけ言い残し、足早に部屋を出て行った。まるで、この部屋に長居することが、居心地が悪いとでも言うように。
その夜、栞は、熱に浮かされ、苦しい夢を見ていた。
父の借金。冷たい世間の目。孤独。暗い水の中に、どこまでも、沈んでいくような感覚。
息が、苦しい。誰か、助けて。
そう思った瞬間、ひやりとした、心地よい感触が、額に触れた。
ゆっくりと、目を開ける。
部屋の明かりは、落とされていた。スタンドの、柔らかな光だけが、ぼんやりと、あたりを照らしている。
ベッドの脇に、椅子に座った、彰の姿があった。彼が、濡れたタオルで、私の額を、拭ってくれている。
「……あきら、さん?」
「うなされていた」
短い返事。その横顔は、いつもと何も変わらない、無表情な氷の仮面のままだった。
けれど、その手つきは、壊れ物を扱うかのように、どこまでも、優しかった。
どうして。
これも、契約だから? 合理的な判断だから?
違う。そうじゃない。
彼の行動は、彼の言葉とは裏腹に、あまりにも、人間的で、温かかった。
その矛盾が、栞の心を、かき乱す。熱のせいだけじゃない。心臓が、うるさいくらいに、高鳴っていた。
彰は、しばらく、栞のそばにいたが、やがて、静かに立ち上がると、部屋から、出て行った。
一人になった部屋で、栞は、自分の額に残る、タオルの冷たさと、彼の手の感触を、確かめる。
計算外だ。なにもかも。
この人は、ただ、冷たいだけの人じゃなかった。あの氷の仮面の下に、不器用で、ぎこちなくて、だけど、驚くほど、優しい素顔を、隠している。
その事実に、気づいてしまったら、もう、今までと、同じ気持ちでは、いられない。
これは、契約だ。ビジネスライクな、関係のはずだ。
そう、自分に、言い聞かせれば、言い聞かせるほど、胸の奥で、芽生えたばかりの、小さな熱が、じわりと、存在を、主張していた。
この文章を友達にシェアしよう
