硝子の舞台と、偽りのワルツ、パーティーで妻を演じる初仕事のエピソード4の表紙イメージ

硝子の舞台と、偽りのワルツ

# 第4話 硝子の舞台と、偽りのワルツ

 彰との奇妙な同居生活が始まって、一週間が過ぎた。

 栞の毎日は、劇的に変わった。もう、督促状に怯えることも、家計簿の数字にため息をつくこともない。けれど、その代わりに手に入れたのは、広すぎる部屋での、完璧な孤独だった。

 彰は、朝早くから夜遅くまで仕事で家を空けている。栞は、言われた通り、最低限の家事をこなし、あとは、まるでこの家の美しい調度品の一つになったかのように、息を潜めて過ごした。

 時折、リビングの本棚から、高価そうな画集や専門書を手に取ってみる。けれど、その内容は、少しも頭に入ってこなかった。豪華な硝子の箱に閉じ込められた、孤独な置物。それが、今の自分だった。

 そんな生活が始まって一週間が経った金曜の夜。

 リビングで本を読んでいた栞の前に、珍しく、彰が書斎から出てきて、立った。

「明日の夜、予定はありますか」

 その問いは、あまりに唐突だった。

「いえ、特に何も……」

「ちょうどいい。明日は、俺が役員を務める会社の創立記念パーティーです。あなたには、俺の妻として出席してもらいます」

 妻として。その言葉に、栞の心臓が小さく跳ねた。

「パーティー、ですか。私、そういう場所は……」

「仕事です」

 彰の言葉は、栞の戸惑いを、ばっさりと切り捨てた。

「祖父の一族も、大勢、出席する。そこで、君を、俺の妻として紹介する必要がある。……これが、あなたの最初の仕事です」

 彼の声は、いつも通り、冷たく、合理的だった。

「何を着ていけば、とか、作法とか、私は、何も……」

「必要なものは、すべて手配してあります。あなたは、ただ、俺の隣で、微笑んでいればいい」

 それは、あまりにも、簡単な指示だった。けれど、栞には、それが、世界で一番、難しいことのように思えた。

 翌日の夕方、部屋の前に、いくつかの巨大な箱が置かれていた。有名ブランドのロゴが入った、栞には縁のない世界の箱。

 中には、夜空の色を溶かしたような、美しいシルクのドレス。そして、それに合わせるように、繊細な輝きを放つダイヤモンドのネックレスとイヤリング。まるで、おとぎ話の魔法使いが用意してくれたかのようだった。

 値札は、見ないふりをした。きっと、自分が一生かかっても、稼げないような金額が書かれているに違いない。

 言われるがままにドレスを身に纏い、リビングへ向かうと、ソファに座ってタブレットを見ていた彰が、ふと顔を上げた。そして、ほんのわずか、彼の黒曜石の瞳が見開かれたのを、栞は見逃さなかった。

 彼は、すぐに、気まずそうに視線を逸らすと、わざとらしく咳払いをした。

「……問題、ないようです」

 彰は、いつも通りの無表情に戻ると、それだけ言って立ち上がった。けれど、その一瞬の変化と、ほんのり赤く染まった彼の耳が、栞の胸をちくりと刺した。それは、今まで感じたことのない、甘い痛みだった。

 パーティー会場は、シャンデリアの光が降り注ぐ、豪華絢爛な空間だった。クラシックの生演奏が、人々の楽しげな会話に溶け込んでいる。

 栞が、その場の空気に圧倒され、立ち尽くしていると、彰がすっと隣に寄り、慣れた仕草で彼女の腰に手を回した。びくりと、栞の体が強張る。

「リラックスしてください。あなたは、久遠 栞。俺の妻だ」

 耳元で囁かれた声は、命令のようでもあり、どこか、彼自身に言い聞かせているようでもあった。

 次から次へと、有名企業の役員や、テレビで見たことのある著名人が彰に挨拶に来る。彰は、完璧なビジネススマイルを浮かべ、「妻の栞です」と彼女を紹介した。栞も、必死に頬を引きつらせて、愛想笑いを浮かべる。

 誰も、これが偽りの関係だとは疑っていない。その事実が、栞の心を、じわじわと締め付けた。

「彰さん、隣の美しい方は、奥様ですか?」

 不意に、鋭い視線と共に、嫌味ったらしい声がかけられた。声の主は、彰とよく似た顔立ちの、しかしどこか意地の悪そうな青年だった。

「従兄弟の和也だ」と彰が短く紹介する。彼が、彰が後継者の座を譲らなければならない相手。

「初めまして。彰の妻の、栞です」

 栞が頭を下げると、和也は値踏みするような視線を、彼女に向けた。

「へえ。仕事一筋だったあなたが、ねえ。どこで、こんな素敵な方と出会ったんです? 我々には、何も、紹介がなかったようですが」

 試すような質問に、栞は息を呑む。何も、聞いていなかった。どうしよう、と隣の彰に助けを求める視線を送った、その時。

「図書館で、一目惚れしたんだ」

 彰が、こともなげに言った。

「本を読んでいる彼女の横顔が、あまりに綺麗で。気づいたら、声をかけていた」

 嘘だ。全部、作り話だ。

 けれど、彰の声はあまりに自然で、その瞳は、一瞬だけ、本当に栞を愛おしむかのような熱を帯びていた。

 その瞳に見つめられ、栞は自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。ただ、心臓が、大きく、音を立てた。

 パーティーが終わり、マンションへ帰る車の中は、重い沈黙に満ちていた。

 あの後、どうやって乗り切ったのか、よく覚えていない。

 部屋に戻り、ようやく偽りの夫婦の役割から解放される。彰は「ご苦労様でした」とだけ言うと、さっさと自分の書斎へと消えていった。

 一人、広すぎるリビングに残された栞は、その場にへたり込んだ。

 もう、借金に怯える必要はない。けれど、代わりに手に入れたのは、心をすり減らす、硝子の舞台の上での役割だった。

 あのパーティーで向けられた、彰の一瞬の眼差し。あれは、完璧な演技だったのだろうか。それとも――。

 考えても仕方のない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。

 栞は、豪華なドレスの裾を握りしめた。後戻りは、もう、できないのだ。この偽りの生活は、始まったばかりなのだから。

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