
私の神(推し)、大地に堕つ
私の人生は、たぶん二つの要素でできている。
一つは、可もなく不可もない社会人生活。もう一つは――神(推し)への絶対的な信仰だ。
「結城さん、この資料お願い」
「はい、承知しました」
にこやかに上司の指示をこなし、完璧な愛想笑いを顔面に貼り付ける。私、結城あかり、二十六歳。都内の中堅メーカーで働く、ごく普通の会社員。手違いで給湯室のお茶を切らしただけで、世界の終わりみたいな顔をしてしまう、典型的なモブキャラ。それが社会における私の姿だ。
でも、そんな私にも、世界で一番輝ける場所がある。
定時ダッシュを決め込み、古びたアパートの自室に転がり込む。PCの電源を入れた瞬間、私はただの結城あかりじゃない。『ハルに捧げるエール』――会員数五万人を誇る、人気俳優「ハル」のファンサイト管理人、「AKARI」になるのだ。
「はぁ……今日のハル様も、尊さがカンストしてる……」
画面に映るのは、ドラマの番宣でバラエティ番組に出演している、私の神ことハル様――本名、如月律(きさらぎりつ)。
くしゃっと笑う顔、真剣な眼差し、長い指。その一挙手一投足が、私の荒んだ心に潤いを与えてくれる。ファンサイトの掲示板は、同じく潤いを求める信者たちの歓喜の声で溢れていた。彼の出演情報、雑誌の掲載ページ、聖地巡礼レポート……。このサイトは、私の情熱そのものだった。
今日の分の供給(きょうきゅう)も完了。さて、サイトの巡回と情報更新を、とマウスに手を伸ばした、その時だった。
ピロンッ。
スマホが軽薄な音を立てて、一件のニュース速報を知らせてきた。
そこに表示されていた文字列を、私は一瞬、理解できなかった。いや、脳が理解を拒否した、と言った方が正しいかもしれない。
『【超速報】人気俳優ハル、清純派女優・西園寺レイラと深夜の密会撮!』
「…………は?」
全身の血が、サーッと引いていくのがわかった。心臓が、まるで氷水に浸されたみたいに冷たく縮こまる。
嘘だ。何かの間違いだ。だって、ハル様はそんな人じゃない。ファンを大切にしていて、真面目で、誠実で……。私がずっと見てきた彼は、そんな軽率なことをする人じゃない。
震える指で、ニュースサイトのリンクをタップする。そこに現れたのは、薄暗い街灯の下、俯き加減のハル様と、隣で親密そうに微笑む女優の、ツーショット写真だった。ノイズの多い、いかにも「撮りました」感のある写真が、逆に妙な信憑性を醸し出している。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
次の瞬間、私のスマホは、SNSの通知で狂ったように震え始めた。
『ハル、まじかよ。信じてたのに』
『クリーンなイメージだったのに幻滅。もうファンやめる』
『やっぱ芸能人なんてこんなもんか。どうせ裏ではやりたい放題なんだろ』
『てか、相手の西園寺レイラって、ついこの間までIT社長と付き合ってなかった? 乗り換え早すぎ』
誹謗中傷。憶測。野次馬の無責任な言葉のナイフが、私の心をズタズタに切り裂いていく。違う、そんなんじゃない。あなたたちが知っているのは、彼のほんの一部分だけじゃないか。
違う。これは、いつものやつだ。アンチが作った、悪質なフェイク画像に決まってる。
そう自分に言い聞かせながらも、指先は氷のように冷たい。事務所の公式サイトにアクセスすると、トップページには『本日の一部報道について』という、定型文のお知らせが掲載されていた。
『本日、弊社所属の如月律に関する報道がございましたが、記事にあるような事実は一切ございません。ファンの皆様、関係者の皆様にご心配をおかけし、誠に申し訳ございません』
よし……! 事務所が否定した。なら、大丈夫。やっぱり、ただのガセネタだったんだ。
翌日の昼休み。少しだけ軽くなった心でスマホを眺めていた私に、向かいの席に座った同僚の真紀が声をかけてきた。
「あかり、あんた昨日からスマホばっか見て、顔色死んでるけど。さては推し関連で何かあった?」
真紀は、社内で唯一私のオタク趣味を共有できる、大切な友人だ。
「……うん、まあね。ちょっと炎上しちゃって」
「あー、見た見た。ハル様だっけ? でも、事務所が否定してたじゃん。なら一安心でしょ?」
「そうなんだけど……なんか、モヤモヤして。一度ついたイメージって、なかなか消えないから」
私の言葉に、真紀は呆れたように息をついた。
「ふーん。でもさ、火のない所に煙は立たない、とも言うけど、火元もないのに放火魔が火をつけることだってあんだよ、ネットじゃん。で?」
「で?」
「あんたはどうしたいわけ? 日本一のハル様ファンサイト管理人さんは。ただ指くわえて、嵐が過ぎ去るのを待ってんの?」
真紀の言葉が、胸に突き刺さる。そうだ。私はただのファンじゃない。彼の魅力を、誰よりも知っていると自負している管理人だ。私が信じなくて、どうする。
「……ううん。やるべきことは、わかってる」
私がそう言うと、真紀はニヤリと笑って「そんじゃ、さっさと片付けて、祝杯あげんぞ」とウインクを飛ばした。
席に戻り、私はもう一度スマホを手に取る。そうだ、私がしっかりしなきゃ。そう思った、まさにその時だった。今度は炎上を煽るような第二波がやってきた。
『事務所は否定してるけど、これ見ても同じこと言えるの?』
そんな挑発的な一文と共に、例の写真の別アングル――二人が同じマンションに入っていくように見える、悪意に満ちた写真が追加で投下されたのだ。しかも、ご丁寧に時刻表示まで入っている。
「……っ!」
もう、ダメだ。涙が、視界を歪ませる。
悔しい。どうして、誰も彼の誠実さを信じないの。どうして、こんな根も葉もない噂で、彼が積み上げてきたもの全てが壊されなきゃいけないの。
ただのファンである私に、何ができる? 公式発表を信じて、嵐が過ぎ去るのを祈ることだけ? 無力感に、奥歯をギリリと噛みしめる。
違う。
本当に、それだけ?
私は、涙を乱暴に拭った。
ふと、脳裏に三年前の光景が蘇る。初めて参加した、小規模なファンミーティング。会場の隅で、誰とも話せず壁の花になっていた私。イベントの最後に設けられた、短い握手の時間。自分の番が来て、緊張で頭が真っ白になりながら「応援してます!」と絞り出すのが精一杯だった。
――ああ、終わっちゃった。
そう思って顔を上げた私に、彼は、あのテレビの向こう側と同じ、優しい笑顔で言ったのだ。
「もしかして、『ハルに捧げるエール』の管理人さん、ですか?」
え、と固まる私に、彼は続けた。
「いつも見てます。あなたのサイトの言葉に、俺、すごく励まされてるんです。本当に、ありがとう」
真っ直ぐに、私の目を見て。ただ一人のファンとしてではなく、「私」個人に向けて、彼はそう言ってくれたのだ。
PCの画面に映る、自分の顔。そこには、いつもの情けないモブキャラの顔はなかった。
怒りと、悔しさと、そして、神(推し)への絶対的な信頼に燃える、一人の戦士の顔があった。
「――ふざけるな」
誰に言うでもなく、低い声が漏れた。
ただのファン? 違う。私は、誰よりもハル様の活動を追いかけ、その一言一句を記録し、その輝きを伝えてきたファンサイト管理人だ。そして何より、私は、彼の誠実さを、この目で見て、この耳で聞いた、証人だ。
「私が、やらなきゃ」
この悪意に満ちた嘘を、この手で暴く。
神(推し)の潔白は、この私が証明する。
カタカタカタッ、と。アパートの一室に、私の覚悟を乗せたキーボードの音だけが、高らかに鳴り響いていた。
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