
ご本人様、降臨しました
「……は?」
深夜の自室に、私の間抜けな声が響き渡る。
古びたアパートの一室。聞こえるのは、壁の薄い隣室から漏れるテレビの音と、私の心臓の音だけ。いや、もう一つ。手元のスマホが映し出す、ありえないメッセージの通知音。
送られてきたメッセージを、一体何度見返したか分からない。
『初めまして。突然のご連絡失礼いたします。当サイトの管理人様でいらっしゃいますでしょうか』
そこまではいい。私の運営するファンサイト『ハルに捧げるエール』のコンタクトフォームには、時々こうした問い合わせが届く。広告掲載の依頼、ファン同士のトラブル報告。そのどれもが、サイト運営という日常の延長線上にあった。
だが、問題はその続きの一文だ。
『私、ハルと申します。あなたに、お願いしたいことがあります』
ハル。その二文字が、私の思考を停止させる。
いや、まさか。だって、ハルは。私の“神(推し)”は、今、ネットという名の法廷で、事実無根の罪状を読み上げられている真っ最中だ。
共演者の人気女優との熱愛疑惑。
たった数時間で、祝福と嫉妬と憶測と、そして何より悪意に満ちた誹謗中傷が渦巻く、巨大な地獄絵図が完成していた。
所属事務所は早々に『事実無根』と声明を出したけれど、一度燃え上がった炎はそんなものでは消えない。むしろ、燃料を投下されたかのように、さらに勢いを増している。鎮火の気配はまるでない。
そんな極限状況で、本人が、たかが一介のファンサイトに、個人的に連絡してくるなんて。
ありえない。絶対に。万が一にも、億が一にも。
これは、手の込んだ悪戯だ。あるいは、私の個人情報を抜き取ろうとする、悪質なアンチの罠か。そうに決まってる。
『もしよろしければ、お話を聞いていただけないでしょうか。切実な、お願いです』
ピコン、と。追い打ちをかけるように、無機質な通知音が鳴る。
「切実」、という言葉に、固く閉ざしたはずの心の扉が、ギシリと音を立てて軋んだ。
もし、本当に。本当にご本人様だったら?
誰にも頼れず、たった一人で、この嵐の中で助けを求めているとしたら?
……いや、落ち着け、私。そんなシンデレラストーリーみたいな展開があるわけない。
「……乗るしかない、か」
口から漏れたのは、自分でも驚くほど冷静な声だった。
好奇心と、ほんの少しの期待。そして何より、推しが窮地に立たされているという事実が、私を突き動かしていた。
最悪、個人情報だけは絶対に渡さない。それさえ守れば、失うものなんて何もない。
私は覚悟を決めて、震える指をキーボードに置いた。
『どのようなご用件でしょうか』
当たり障りのない、事務的な返信。
すぐに、画面の端に「既読」の二文字が灯る。心臓が、早鐘を打ち始めるのが分かった。
『ありがとうございます。実は、今、ネットで騒がれている件について、管理人様のお力を貸していただきたいのです』
核心に触れてきた。
ゴクリ、と喉が鳴る。私は慎重に、それでいて相手の真意を探るように、言葉を選ぶ。
『私に、何ができると?』
『あなたのサイトを、ずっと拝見していました。他の誰よりも、僕の……ハルのことを、深く、そして正確に理解してくださっていると感じました。そして、昨夜あなたが投稿されたブログ記事。拝見しました。見事な分析でした』
昨夜の、記事。
私は、今回のスキャンダル写真に写り込んだハルの些細な癖――緊張すると僅かに右の眉が上がること、彼がプライベートで絶対に身につけないブランドの服を着ていること――を指摘し、彼の性格や過去の発言から、写真のシチュエーションがいかにありえないかを、ファンならではの視点で綴ったのだ。
感情的に『これは捏造だ』と叫ぶのではなく、『彼のファンとして、私はこう思う』と。冷静に、客観的な事実を積み上げて。
『あの記事を読んで、確信しました。あなたなら、この嘘の裏にある真実を、見抜いてくれるかもしれない、と』
画面の向こうの『ハル』は、立て板に水のごとく言葉を紡ぐ。
その文面は、どこか必死で、切羽詰まった響きを持っていた。テレビで見る、いつも自信に満ち溢れた彼の姿とは、あまりにもかけ離れている。
『信じられないかもしれませんが、僕は本当に、ハル本人です。証拠、と言われても、今すぐにお見せできるものがありません。ですが……』
そこで、言葉が途切れる。
数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。
そして、送られてきたのは、一枚の画像データだった。
「なっ……!」
思わず、息を呑む。椅子から転げ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
それは、ハルが自身の公式SNSに、ごく稀に投稿する、飼い猫の写真。スコティッシュフォールドの、もち、という名前の猫だ。
だが、写っているアングルが、今まで公開されたどの写真とも違った。
完全にプライベートな、彼の自宅で撮られたであろう一枚。
しかも、写真の隅には、今日の昼間にテレビで放送されていた情報番組のキャラクターグッズが、ほんの僅かに、しかしはっきりと写り込んでいる。
……本人、だ。
この人は、本物の、如月律さんだ。
全身から、サーッと血の気が引いていく。指先が、真冬のように冷たくなっていく。
それと同時に、カッと頭に血が上るのを感じた。
なんで。どうして。
こんなことになるまで、一人で抱え込んでいたの?
事務所は、マネージャーは、一体何をやっているの? あなたの味方は、誰もいないっていうの?
気づけば、私は怒りに任せて、猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。
『状況は理解しました。それで、私に何をしろと? 犯人捜しでもしろと言うのですか?』
少し、棘のある言い方になってしまった。敬語もどこかへ消し飛んでいる。
でも、仕方ないじゃないか。
雲の上の、神様だと思っていた存在が、すぐ手の届きそうな場所で、冷たい雨に打たれて震えている。
冷静でいられるわけがない。
『……はい。その通りです』
返ってきた言葉は、あまりにもストレートで、私の勢いを削ぐには十分だった。
『僕は、誰がこんな悪意のある嘘を広めたのか、突き止めたい。でも、僕自身は迂闊に動けない。僕の発言一つで、また騒ぎが大きくなるから。だから、どうか、あなたの力を貸してください。もちろん、これは僕個人の我儘です。危険なことかもしれません。それでも……』
『わかりました』
彼の言葉を遮るように、食い気味に、返信する。
もう、迷いはなかった。
『協力します。ただし、条件があります』
『条件、ですか?』
『はい。私は、あなたのファンサイトの管理人です。それ以上でも、それ以下でもありません。あなたと直接会うこともしませんし、私の個人情報も一切お伝えしません。あくまで、匿名の協力者として。それでもよければ』
これが、私の最大限の強がりであり、自分自身を守るための精一杯の防衛線だった。
神様と、ただのファン。
決して、交わってはいけない境界線。それを超えてしまえば、もう、元には戻れない。
数秒の間の後、画面に新しいメッセージが表示される。
『……十分です。ありがとうございます、軍師殿』
軍師殿、と。
その少し古風で、けれど確かに信頼を寄せられた響きに、私の心臓が、また大きく、強く跳ねた。
こうして、私、結城あかりの、人生で最も奇妙で、最も刺激的な数日間が、静かに幕を開けたのだった。
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