
選択の神託
世界は、ゆるやかに死にかけていた。
「嘆き」と呼ばれる灰色の霧が、世界のりんかくを静かにむしばみ始めて、もう久しい。それは悪意なきわざわい。ただそこに在るだけで、あらゆる生命から色と熱をうばっていく。霧に触れた大地は痩せ、草木は枯れ、豊かな実りを与えてくれた川はよどんだ。人々は元気をなくし、街から笑顔が消え、空はいつも薄暗い雲におおわれている。風はほこりっぽく、どこかすすり泣きのような音を立てて吹き抜けていく。誰もが、じわじわとせまる終わりの予感に、ただ黙ってたえるしかなかった。
そんな世界にあって、私の毎日は、まだ静かでおだやかだったと言えるだろう。
神殿の朝は、澄んだ鐘の音で始まる。窓から差し込む光は白く、磨かれた石の床をすべっていく。私は、神殿に仕える多くの孤児たちと同じ、ごく普通の少女、天音(あまね) 祈(いのり)。特別なことなど何もない、つつましい毎日。去年の収穫祭で、みんなで作った花の冠をセナにかぶせてあげた時の、あの子の嬉しそうな顔。そんな小さな思い出だけが、私の宝物だった。
「祈(いのり)お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう、セナ。昨日はよく眠れた?」
「うん。お姉ちゃんがくれた、手作りの匂い袋のおかげ。これがあると、悪い夢を見ない気がするの」
年下の孤児であるセナの小さな頭をなでるのが、私の一日の始まりだった。彼女のような子供たちが、これ以上「嘆き」におびえることのないように。私の祈りは、いつもそこから始まっていた。この小さな幸せを守りたい。ただ、それだけを願っていた。
その日の午後、私は神殿の片隅にある書庫で、古い本の整理をしていた。ここは私の好きな場所の一つだ。古びた紙の匂いと、静けさが心地いい。仕事の合間に、私は一冊の英雄の物語を手に取った。それは、何百年も前に「嘆き」のけしんである巨大な竜を、一人の聖騎士が自らの命とひきかえに封印したという物語だった。
(……すごいな。自分の命を、世界のために)
物語の中の英雄は、迷いなく、ほこり高くその身をささげたと書かれている。その気高さに胸を打たれる一方で、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。自己ぎせいなんて、物語だからこそ美しく描けるのだ。私には、そんな大それたことはとうていできそうにない。
本を棚に戻し、自分の日常に戻ろうとした、その時だった。
「天音(あまね) 祈(いのり)。大神官様がお呼びです。急いで、大聖堂へ」
私を呼びに来た神官の顔が、血の気を失って青ざめていることに、私は胸さわぎがした。私のような末端の孤児に、大神官様が直接、何の用だろうか。書庫の静けさが、急に重苦しいものに変わる。
大聖堂は、神殿で最も神聖な場所。何百年もの歴史をきざんだ石の柱が、巨大なドーム天井を支えている。高い壁にはめこまれたステンドグラスは、「嘆き」のせいで薄暗い空の下、沈んだ色の光を床に落としていた。私の足音が、静けさの中で大きく響きわたり、まるで自分のものではないように聞こえる。
その中央に、大神官様は静かに立っていた。
「来たか、祈(いのり)」
白く長い髭をたくわえた大神官様は、厳しい、それでいてどこか悲しげなひとみで私を見つめた。
「はい。どういったご用でしょうか」
私の声が、緊張で少しふるえる。大神官様は、ゆっくりと口を開いた。その声は、まるで世界の重みを全て背負っているかのように、低く、重く響いた。
「昨夜、神託が下った。何百年もの沈黙を破り、我らが神が、ついに声を発せられたのだ」
神託。その言葉に、私は息をのんだ。
「『嘆き』の侵食は、もはや待ったなしの段階にある。このままでは、あと数年で世界の生命はつきよう。この神託こそが、我らに残された最後の希望なのだ」
大神官様は、祭壇に置かれた古文書を指し示した。そこに書かれていたのは、ふるえるような文字で書かれた、神託の内容だった。
「――聖女よ、世界を救いたいと願うなら、あなたの“最愛の人”を、その手で祭だんにささげなさい――」
「……最愛の、ひと?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。頭の中で、神託の言葉が何度もくり返される。私の、最愛の人を、ささげる? それは、つまり――ぎせいにするということ?
「お待ちください! そんな……。私には、特別な力などありません。それに、人の命をぎせいにするなど、神がお望みになるはずが……」
「お前は、ただの孤児ではない。その身には、神聖な祈りの力をやどす『聖女』の血が流れている。我らも知らなかったことだが、神託がお前を名指したのだ。そして、お前がささげるべき『最愛の人』……その候補者もまた、運命に導かれてまもなくこの地に集まるだろう。三つの国より、王子、騎士、そして魔術師が。彼らはお前の『最愛の人』の座をめぐり、きそい合うことになる」
大神官様の言葉は、まるで決まったことのように、私の心に重くのしかかった。私の意思など、どこにもない。ただ、運命という名の舞台に、むりやり立たされるだけ。
「彼らの中から、お前が真に愛する者を選び、そして……ささげるのだ。それが、世界を救う唯一の道であり、聖女としてのお前の使命だ」
「嫌です! そんなの、使命なんかじゃありません! まだ見ぬ誰かを愛して、その人を殺すなんて、そんな残酷なことができますか!?」
「祈(いのり)よ」大神官様の声が、私の叫びをさえぎった。「わしとて、お前にこのような役目を負わせたいわけではない。だが、これしか道はないのだ。世界か、一人の命か。選ぶことなど、我らにはできない」
大聖堂からの帰り道、世界はすっかり変わっていた。昨日まで、ただの「祈(いのり)」だった私を見る人々の目が、変わってしまったのだ。すれ違う神官たちはふかぶかと頭を下げ、孤児たちは遠巻きに私を見て、ひそひそと噂話をしている。いつもなら「祈(いのり)お姉ちゃん」と駆け寄ってくるセナでさえ、柱の陰から不安そうに私を見つめるだけだった。おそれ、あわれみ、期待、しっと。様々な感情が、見えない壁となって私をへだててしまう。
もう、誰も私のことを、ただの少女としては見てくれない。私は『聖女』という名の、いけにえを選ぶための道具になってしまった。
その夜、私は一人、自室のベッドの上でひざを抱えていた。窓の外は、いつもより「嘆き」の霧が濃いように思える。静かだった私の世界は、完全に壊れてしまった。これから私を待っているのは、誰かを愛し、そして失うための、残酷な物語。
自分の手のひらを見つめる。この、小さな手で? セナの頭をなで、傷ついた小鳥を手当てしたこの手で、愛した人を、あやめるというの?
「嫌……」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に聞かれることもなく、冷たい部屋の空気に溶けて消えた。私は神に祈ろうとした。どうか、これは間違いだと、何かの試練なのだと言ってください、と。しかし、言葉は喉の奥でつかえ、出てこなかった。人の命をうばうことを肯定する神に、私はもう、純粋な気持ちで祈ることなど、できそうになかった。
私のおだやかな毎日は、もう二度と戻ってはこない。これから始まる運命の重さに、私はただ、どうすることもできずにふるえることしかできなかった。
この文章を友達にシェアしよう
