王子の甘言と、見せかけの世界、王子の華やかな世界に心が傾くエピソード5の表紙イメージ

王子の甘言と、見せかけの世界

ノア様の冷たい論理に心を預けそうになった、あの日から数日。私の心は、未だに振り子のように揺れ動いていた。シルヴァン様の命がけの献身がくれる温かい安らぎと、ノア様の言葉がくれる凍てつくような合理性。その二つの間で、私はどちらにも進めずに立ち尽くしていた。どちらを選んでも、待っているのは誰かの犠牲と、私の罪悪感だけだ。この袋小路から、抜け出す術はないのだろうか。

そんな私の元に、三番目の候補者であるジュリアン殿下が、突然訪れたのは、よく晴れた日の午後だった。彼は太陽の帝国の第一王子。その名の通り、太陽をそのまま写し取ったかのような、きらきらと輝く金髪と、自信に満ちた空色の瞳を持っていた。彼の存在そのものが、神殿の静かで厳かな空気を、一瞬にして華やかに塗り替えていく。

「やあ、我が愛しの聖女殿。こんな薄暗い神殿で、一人思い悩んでいるのかい? 君のその美しい顔には、憂いよりも笑顔がよく似合う」

彼は芝居がかった仕草で私の手を取り、その甲にそっと口づけをした。シルヴァン様やノア様とは全く違う、堂々とした彼の振る舞いに、私は少し戸惑ってしまう。まるで、壮大な物語の登場人物になったかのような、非現実的な感覚だった。彼の指先から伝わる、確かな体温にどきりとする。

「ジュリアン殿下……。どうして、こちらに?」

「決まっているだろう? 君を、私の世界に招待するためさ」

そう言って彼が差し出したのは、金色の刺繍が施された、豪華な招待状だった。太陽の帝国主催の、大規模な夜会への誘いだった。そこには私の名前が、まるで宝石を散りばめたかのような、美しい筆記体で記されている。

「君が世界を救う聖女だということは、皆が知っている。だが、彼らは君を遠くから見ているだけだ。私は違う。君という一人の女性を、もっと知りたい。そして、私のことも知ってほしいんだ」

彼の言葉は、有無を言わせない力強さを持っていた。断るという選択肢が、最初から存在しないかのように。私は、その勢いに流されるまま、こくりと頷いていた。この息苦しい現実から、少しだけ逃げられるかもしれない。そんな淡い期待が、疲れた心に芽生えていた。

そして、夜。

ジュリアン殿下が差し出した純白のドレスに身を包み、私は彼の国の王族が滞在する離宮のホールに立っていた。そこは、私が今まで生きてきた世界とは、何もかもが違っていた。

高い天井からは、星の光を閉じ込めたようなシャンデリアがいくつも吊り下がり、その光が床や壁の金装飾に反射して、空間全体が黄金色に輝いている。床は鏡のように磨き上げられ、着飾った貴族たちの姿を鮮やかに映し出す。軽やかなワルツが流れ、あちこちで楽しげな笑い声が銀の鈴のように響き渡る。甘い花の香りと、高級な香水、そして焼き菓子の香ばしい匂いが混じり合った空気が、私の肺を幸福感で満たした。

(すごい……。これが、王族の世界……。私の知らない、きらびやかな世界。毎日、こんな場所で……)

神殿での静かで質素な暮らししか知らない私にとって、その全てが眩しく、夢の中にいるようだった。私が呆然と立ち尽くしていると、ジュリアン殿下がそっと私の腰に手を回し、ダンスの輪の中へとスマートに誘った。

「どうかな、祈。私の世界は、君の目にはどう映る?」

「……とても、きれいです。星空の中にいるみたいで……」

「そうだろう? だが、君が隣にいてくれるなら、この景色はもっと輝く。君こそが、この夜会で一番美しい宝石だ。誰にも渡したくない」

彼のリードに合わせて、私は夢中でステップを踏む。彼の空色の瞳が、すぐ近くで私をじっと見つめていた。その瞳に見つめられていると、自分が世界で一番特別な存在になったかのような錯覚に陥る。シルヴァン様やノア様といる時の、あの胸の痛みや苦しさが、この場所では嘘のように感じられなかった。ただ、楽しくて、心地よくて、全てを忘れさせてくれる。

しばらくして、彼は私を連れて、月の光が差し込むバルコニーへと向かった。ホールのにぎやかな喧騒が、嘘のように遠ざかり、涼しい夜風が火照った頬を優しく撫でる。眼下には、手入れの行き届いた美しい庭園が広がっていた。

「祈。君は、シルヴァン・アークライトの献身に心を打たれ、ノアの論理に心を動かされている。違うかな?」

「……!」

「だが、彼らが見せているのは、ただの『死』への願望だ。一方は感情的に、もう一方は合理的に。だが、どちらも君を悲しませるだけの結末に過ぎない。君は、誰かの犠牲の上に成り立つ平和を、本当に望んでいるのかい?」

ジュリアン殿下は、私の戸惑いを見透かしたように、静かに、しかし力強く言った。彼の言葉は、私の心の最も柔らかい部分を的確に突いてくる。

「私は違う。私は君に『生』を与える。君と共に生き、この世界を救い、そして、二人でその先の未来を歩む道だ」

「未来……?」

「そうさ。考えてもごらん。もし、君が私を選んだなら、どうなるか。君は、太陽の帝国の王子妃として、世界を救った英雄として、歴史にその名を刻むことになる。人々は君を永遠に称え、感謝し、愛するだろう。誰も君を悲しませたりしない。私が、させない」

彼の言葉は、とろけるように甘い蜜のようだった。シルヴァン様のように、私の罪悪感を刺激することもなく。ノア様のように、私の心を切り捨てることもない。ただ、輝かしい未来と、名誉と、絶対的な肯定だけを、彼は私に差し出してくれた。それは、私がずっと心のどこかで求めていた、救いの言葉そのものだった。

「君は、ただ、私を選べばいい。そうすれば、君も、世界も、私も、全てが救われる。これ以上の『最適解』が、他にあると思うかい?」

彼は、私の頬にそっと手を添えた。その手は、シルヴァン様のように熱くもなく、ノア様のように冷たくもなかった。ただ、自信に満ちた王族の、温かい手だった。その温もりが、私の心の隙間にじんわりと染み込んでくる。まるで、乾いた大地に水が染み渡るように。

彼の甘い言葉と、きらびやかな世界。それは、今の私にとって、あまりにも魅力的すぎた。この人の言う通りにすれば、誰も傷つけずに、苦しまずに済むのかもしれない。そんな都合のいい考えが、私の頭をよぎり、心を支配していく。

(この人なら、私を救ってくれる……? この苦しみから、解放してくれる……?)

私の心が、大きく、そして危険な方へと傾き始めたのを、私は確かに感じていた。彼の瞳に映る私は、ただ微笑んでいる。まるで、もう悩みなど何もないかのように。このまま、彼の腕の中に落ちてしまえば、どれだけ楽になれるだろう。そんな抗いがたい誘惑が、私を包み込んでいた。

前の回
アプリで続きを読む
アプリはApple StoreとGoogle Playからダウンロード可能

まずは無料でダウンロード

「アバトーク」は匿名・顔出しナシで気軽に恋愛相談できるアプリ。

今すぐ相談してみる!

こちらからダウンロードをお願いします!