
魔術師の囁きと、論理の罠
シルヴァン様が魔物との戦いで大怪我をしてから、三日が過ぎた。
彼の命に問題はなかったけれど、神殿の医務室でゆっくりと休む毎日が続いている。私は毎日、彼のお見舞いに行った。眠っている彼のそばに座り、ただその寝顔を見つめる。規則正しい寝息を聞いているだけで、不思議と心が落ち着いた。あの日、芽生えたこの温かい気持ちは、日ごとに私の心の中で大きくなっていく。
(シルヴァン様……)
彼の、血の気がなく青白かった手を思い出す。私のために命を懸けることを「喜び」だと言った、あのまっすぐな瞳。思い出すだけで、胸が苦しくなる。この気持ちが『愛』だとしたら、私は、彼を選んでしまうのだろうか。そして、この手で、彼を……。
「ううん、だめ」
私は小さく首を振って、怖い考えを振り払った。彼を犠牲になんて、させたくない。でも、彼を愛せば愛すほど、神のお告げの条件がそろってしまう。このどうしようもない状況が、私を少しずつ追い詰めていた。シルヴァン様への想いが深まるほど、罪悪感もまた、心の底にたまっていく。
そんなある日の午後、私は神殿の大きな書庫にいた。気分を変えようと思ったけれど、結局は「嘆き」や「神託」についての本ばかり探してしまう。分厚い本を抱えて、高い天井まで続く本棚の間を歩く。古い紙の匂いが、私の不安な心を少しだけ落ち着かせてくれた。
「――やはり、ここにいましたか、祈」
不意に、静かな声が後ろから聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのはノア様だった。彼がいつからそこにいたのか、人のいる感じが全くしなかった。その深い森の湖のような緑の瞳が、私をじっと見つめている。
「ノア様……。何か、用事ですか?」
「ええ。少し、君と話がしたいと思いまして。どうやら、シルヴァン・アークライトのことで、君の心はひどく乱れているようですね。その気持ちの揺れは、我々がこれから出すべき『一番良い答え』のじゃまになるかもしれません」
彼の言葉は、いつも通り感情がこもっておらず、冷たい感じがする。けれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ、私の心の揺れを正確に言い当てられたことに、少しだけ驚いてしまう。
「……私の、気持ちが、分かりますか?」
「ええ、よく分かります。君は、彼に感謝し、同時に罪悪感を持っている。彼を想う気持ちと、彼を犠牲にしたくないという気持ち。その二つが、君の中で激しくぶつかり合っている。違いますか?」
私は、言葉を失った。まるで、私の心の中をのぞき見たかのように、彼はすべてを分かっていた。
「君がそうなるのは、ある意味で当たり前です。シルヴァンのように、自分を犠牲にすることを良いことだと考える人間は、他人に『守ってあげたい』と思わせる気持ちを強く刺激します。ですが、祈。その気持ちに流されてはいけません」
ノア様は、私が抱えていた本の一冊を、そっと抜き取った。それは、「嘆きの正体」という題名の、とても古い本だった。
「『嘆き』とは何か、君は考えたことがありますか?」
「え……? 世界を少しずつ壊していく、災い……ですよね?」
「それは結果だけを見た話です。もっと、根本的な話をしています」
彼は本をぱらぱらとめくり、あるページで指を止めた。
「私の考えですが、『嘆き』とは、強い『想い』が暴走した結果、世界からこぼれ落ちたエネルギーの残りかすなのではないか、と思っています。愛、憎しみ、悲しみ……。そういった、人が手に負えないほどの強い感情が、世界が受け入れられる量を超えた時、それは『嘆き』となって世界を壊していく」
彼の言葉は、まるで物語を語るように、静かに、けれど筋道を立てて私の頭の中に染み込んでいく。
「そして、今回のお告げ。これもまた、とても合理的な『現象』だと考えられます。聖女である君が、候補者の一人に『大好き』というとても強い感情を向ける。そのエネルギーを使って、世界中に広がった『嘆き』の力を打ち消す、あるいは封じ込める。……これが、お告げの本当の目的なのではないでしょうか」
「そんな……。じゃあ、やっぱり、誰かが犠牲にならないと……」
「ええ。ですが、その『犠牲』にも、違いがあります」
ノア様は、私に向き直り、その緑の瞳でまっすぐに私を見た。
「考えてみてほしい、祈。もし、シルヴァンが犠牲になった場合。彼は騎士団長で、王国の守りの中心です。彼を失えば、ローゼンベルク王国は大きなダメージを受け、軍のバランスが崩れる。それは、新しい争いの原因になりかねません」
「……」
「ジュリアン殿下が犠牲になった場合は、さらに面倒です。太陽の帝国の第一王子を失えば、大きな戦争になる可能性すらある。世界は『嘆き』から救われても、今度は人間同士の争いで滅びるかもしれません」
彼の言葉は、どこまでも現実的で、私は何も言い返せなかった。
「では、私が犠牲になった場合は、どうでしょう?」
ノア様は、まるで他人事のように、そう言った。
「私は、賢者の国のお城の魔術師ですが、代わりはいくらでもいます。私の死が、国と国の関係に大きな影響を与えることはない。政治や軍事の損失は、ほとんどゼロです。……つまり、私という駒を切り捨てることが、この状況における、最も合理的で、最も被害の少ない『一番良い答え』なのです」
彼は、微笑んでいた。それは、ジュリアン殿下のような華やかな笑みでも、シルヴァン様のような安心させるための笑みでもない。ただ、数式が解けたことを喜ぶかのような、静かで、知的な微笑みだった。
「あなたも……あなたも、死ぬことを望んでいるのですか?」
「望む、という感情的な言葉は正しくありません。ただ、それが一番効率的だと判断しているだけです。私は、この世界の存続という大きな目的のために、一番合理的なやり方を提案しているだけです」
彼の言葉には、シルヴァン様のような熱い気持ちも、ジュリアン殿下のような野望もない。ただ、絶対的な『論理』だけがあった。その揺るぎない論理が、今の私には、嵐の中の灯台の光のように、頼もしく思えた。
「ノア様……」
「君は、優しい人間だ。だから、誰かを犠牲にすることに、心が耐えられない。ならば、その心の負担が一番軽くなる選択肢を選ぶべきです。私が、そのための道を示してあげます。君は、ただ、私の言葉に従えばいい」
彼は、私の頭に、そっと手を置いた。その手は、少しひんやりとしていて、それがかえって、熱を持った私の心を冷静にさせてくれるようだった。
シルヴァン様が、命がけで私に尽くしてくれること。それは、私の心を温め、守ってくれる。でも、それは同時に、私を罪悪感で縛り付ける。
ノア様の、どこまでも冷静な論理。それは、私の心を軽くし、進むべき道を示してくれる。でも、それは、人の心を『じゃまなもの』だと言い切る、怖い考え方でもある。
(でも……)
今の私には、この、すべてを解き明かしてくれるような賢さが、何よりも魅力的に見えた。この人になら、頼ってもいいのかもしれない。この残酷な運命を、乗り越えるための知恵を、貸してくれるのかもしれない。
「……ノア様のこと、もっと、教えてください」
私の口からこぼれたのは、そんな言葉だった。それは、シルヴァン様に対して抱いた気持ちとは、全く別の、知的な好奇心と、そして、彼に頼りたいという気持ちの始まりだったのかもしれない。
ノア様は、私の言葉に満足そうにうなずくと、書庫の奥を指差した。
「いいでしょう。では、まずは『嘆き』の正体について、もう少し詳しく話してあげます。ついてきなさい、祈」
彼の後を、私はためらわずについていった。シルヴァン様のことを考えると胸が痛むのに、ノア様の言葉は、その痛みを忘れさせてくれる。私は、二つの反対の気持ちの間で、静かに揺れ動き始めていた。
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