
花嫁の仕事と、小さな変化
常磐様の屋敷に来て、幾日かが過ぎた。
あやかしの主である常磐様は、私を喰らうどころか、まるで壊れ物のように丁重に扱ってくれた。あたたかい寝床に、毎日用意される美味しい食事。身に余るほどの美しい着物まで与えられ、何一つ不自由のない暮らしだった。
けれど、私の心は少しも休まらなかった。むしろ、そのあまりの穏やかさが、分厚い綿で首を絞められるような息苦しさになっていた。
「今日も、何もすることがない……」
ぽつりと、誰に聞かせるともない独り言がこぼれる。広い屋敷の縁側で膝を抱えながら、私はただ、静まり返った庭を眺めることしかできなかった。
私は、人身御供としてここへ来た。村の災いを鎮めるための、生贄。それが私の役目のはずだった。それなのに、常磐様は私に何一つ求めない。「お前はただ、ここにいればいい」と、そう言うだけ。
その優しさが、私を不安にさせた。私はまるで、美しいだけの置物だ。何の役にも立たず、ただ息をして、食事を消費するだけの存在。そんな自分が、たまらなく無価値なものに思えた。
このままではいけない。心が腐ってしまう前に、何かをしなければ。
その日の夕食後、私は意を決して、常磐様の前に座った。彼の前では、いつも呼吸が浅くなる。
「あの、常磐様」
緊張で声が震える。食事を終え、静かにお茶を飲んでいた常磐様が、その涼やかな瞳をゆっくりと私に向けた。
「どうした、美世」
彼の静かな声が、私の心臓をさらに速く打たせる。その声に含まれる響きが、私という存在を肯定も否定もせず、ただそこにあるものとして認識しているようで、それがまた苦しかった。
「私に、何かお仕事をいただけないでしょうか」
言ってしまった。言ってしまってから、彼の機嫌を損ねてしまったのではないかと、血の気が引くのを感じる。
けれど、常磐様の反応は意外なものだった。彼は少しだけ目を見開くと、心底不思議そうに、そして少し困ったように眉を寄せた。
「仕事? 必要ないと言ったはずだが」
「ですが、私は毎日、ただ食事をいただいて、眠るだけの生活です。それではまるで……」
まるで、喰われるのを待つ家畜のようだ、と。そう言いかけて、慌てて口をつぐむ。そんなことを言えば、彼を不快にさせてしまうかもしれない。
「……何か、私にできることをしたいのです。このままでは、自分が自分でなくなってしまいそうで……怖いんです」
絞り出した声は、情けないほどに震えていた。俯いた私に、常磐様のため息が聞こえる。
ああ、やはり呆れられてしまっただろうか。我儘なことを言うなと、怒らせてしまっただろうか。もう、ここにはいられないかもしれない。
「……分かった」
静かな、諦めたような声に、私はっと顔を上げた。
「では、一つだけ任せよう。お前にできるかどうかは分からんが」
「はい! 何でもやります!」
食い気味に返事をすると、常磐様はふっと、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。それは幻だったのかもしれないほど、一瞬のことだった。
「屋敷の裏に、荒れた庭がある。長いこと誰も手入れをしていない。そこを好きにしてみろ」
「庭、ですか?」
「ああ。花を植えるなり、畑を作るなり、お前の好きにするといい」
思いがけない提案に、私は目を丸くした。けれど、すぐに胸の奥からじんわりとあたたかいものが込み上げてくる。仕事を与えられた。私が、この屋敷でやってもいいこと。その事実が、たまらなく嬉しかった。
「ありがとうございます! 常磐様!」
私は深々と頭を下げた。顔を上げると、常磐様はもう興味を失ったように、静かにお茶を飲んでいた。けれど、その横顔が、いつもより少しだけ優しく見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
次の日から、私の仕事が始まった。
案内された裏庭は、常磐様の言う通り、陽の光も届かないほど雑草が鬱蒼と生い茂り、長い間、忘れ去られていた場所のようだった。
けれど、私は不思議と心が躍るのを感じていた。ここを、私の手で変えられるのだ。
まずは、雑草を抜くことから始めた。村にいた頃、畑仕事を手伝わされた経験が役に立った。最初は硬かった土も、鍬で耕していくうちに、だんだんと柔らかくなっていく。土の匂い、汗を拭う風の感触、燦々と降り注ぐ太陽の光。そのすべてが、私の心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
夢中で土と向き合っていると、時間が経つのを忘れた。泥だらけになるのも構わずに、私は毎日、庭仕事に没頭した。
常磐様は、時折、遠くからその様子を眺めているようだった。けれど、何も言わずに、ただ静かに私を見守ってくれている。そのことが、私には心地よかった。
数日かけて雑草を取り除き、土を耕し終えると、そこには小さな更地が生まれた。私は屋敷の蔵から見つけたいくつかの花の種を、そこに植えることにした。
どんな花が咲くのかも分からない。けれど、私は毎日、小さな芽が出るのを心待ちにしながら、水をやり続けた。
何日か経った朝、土の表面から、小さな緑色の双葉が顔を出しているのを見つけた。
「あ……!」
思わず、声が漏れた。なんて愛おしいのだろう。私はその場にしゃがみこみ、小さな命を飽きずに眺めた。
命を育むということが、こんなにも心を豊かにするなんて知らなかった。私の手で、何かが生まれる。その事実が、空っぽだった私の心に、確かな、あたたかい光を灯してくれた。
それからの私は、さらに庭仕事に夢中になった。日に日に大きくなる芽、伸びていく茎、膨らんでいく蕾。その一つ一つの変化が、私に生きていることの喜びを教えてくれるようだった。
そして、ある穏やかな昼下がり。
ついに、その瞬間が訪れた。一番初めに蕾をつけた一輪が、静かにその花弁を開いたのだ。
それは、小さな、白い花だった。派手さはないけれど、凛として、とても美しい。
「咲いた……」
私は夢中でその花に見入った。私が育てた花。私が、この世界に咲かせた花。
胸がいっぱいで、涙がこぼれそうになる。ただ嬉しいだけじゃない。これは、私がここにいてもいいという、小さな証のような気がした。私がこの屋敷で、初めて成し遂げたこと。
ふと、背後に人の気配を感じて、私は振り返った。いつからそこにいたのだろう。常磐様が、静かに立って私を見ていた。
「常磐様……」
彼が、私の育てた庭をどう思うか、少しだけ不安になる。けれど、彼の視線は私ではなく、その足元に咲いた一輪の花に注がれていた。
常磐様はゆっくりと花に近づくと、その前にそっと屈んだ。まるで、大切なものに触れるかのように、その白い花弁を指先で優しく撫でる。
そして。
常磐様は、静かに微笑んだ。
それは、今まで見たどんな表情とも違う、心からの、穏やかで優しい微笑みだった。
その瞬間、私の心臓が、とくん、と大きく音を立てた。時が止まったかのように、彼の微笑む横顔だけが、私の世界の全てになった。常磐様の微笑みは、太陽の光よりもあたたかく、私の心の奥深くまで、じんわりと染み渡っていく。
たった一輪の花が、この偉大なあやかしの心を動かした。そして、その微笑みが、私の心をこんなにも揺さぶっている。
私は、自分が咲かせた小さな白い花と、その前に屈む美しいあやかしの姿を、ただ瞬きも忘れて、見つめていた。
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