
盗まれた光
会議室の突き刺すような沈黙の中、私はポケットの中の名刺を、まるでお守りのように強く握りしめた。あの写真に写っていた、私。忘れていたはずの、私自身の顔。
「……はい」
か細い、けれど確かな声で、私は答えた。
「バックアップ、あります」
その瞬間、上司の顔がぱっと輝き、沙織の顔が憎悪に歪むのを、私は見逃さなかった。
その日から、私の日常は一変した。
これまでの雑用ばかりの日々が嘘のように、私はコンペの中心メンバーとして扱われるようになった。クライアントが私のデザインの方向性を支持した以上、沙織も、そして会社も、私を無視することはできなくなったのだ。
もちろん、沙織からの風当たりは日に日に強くなった。すれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、私が作った資料に「こんなのもわからないの?」と赤字をびっしり書き込まれたり。けれど、不思議と以前のような絶望は感じなかった。
私には、やるべきことがある。
あの「光に宿る意志」を、今度こそ、この手で形にしてみせる。
週末、私は奏太に連絡を取り、撮影の依頼を受けた。
指定されたのは、海沿いにある古びた倉庫を改装したスタジオ。無骨なコンクリートの壁と、大きな窓から差し込む鋭い光が印象的な場所だった。
「相変わらず、パッとしない顔だな」
「……どうせ、死んだ魚の目ですよ」
軽口を叩きながらも、私の心は穏やかだった。
奏太は私にポーズを指示するでもなく、ただ「好きにしろ」と言って、少し離れた場所からカメラを構えるだけ。最初は戸惑ったけれど、次第に私は、デザインのことを考えるのに夢中になっていった。
クライアントが求めている「意志の強さ」とは何か。
それは、ただ美しいだけじゃない。逆境の中でも、自分を信じて立ち上がる、しなやかな強さ。
そうだ、まるで、あの写真の私のように……。
夢中でスケッチブックにペンを走らせていると、不意に奏太の声が飛んだ。
「おい、今、こっち向け」
言われるがままに顔を上げると、カシャ、とシャッターが切られる。
「……悪くない。今のあんたは、ちゃんと自分の足で立ってる」
ぶっきらぼうな言葉。でも、それはどんな賛辞よりも、私の心に深く、温かく染み渡った。
この人には、見えているんだ。
私が、変わろうとしていることが。
撮影を重ねるうちに、私は少しずつ、自分に自信を取り戻していった。
奏太が切り取る私は、私が思う「私」よりも、ずっと力強く、輝いて見えた。
そして、運命のプレゼン当日。
クライアントの強い指名により、私と沙織が共同でプレゼンを行うことになった。メインのコンセプトは私が、そして市場戦略については沙織が担当するという、異例の形式だ。
私は、この日のために全てを懸けてきた。
徹夜で資料をブラッシュアップし、何度も声に出して発表の練習を繰り返した。緊張で心臓が早鐘を打っているけれど、それ以上に、高揚感が全身を駆け巡っている。
やっと、私のデザインを、私の言葉で、世界に届けられる。
少し早めに会社に着き、誰もいない会議室でPCを開く。
最終チェックをして、心を落ち着かせよう。
デスクトップに置いた、プレゼン用のフォルダを開く。
「……え?」
フォルダの中が、空っぽだった。
あるはずの、プレゼンテーションファイルが見当たらない。
「うそ……」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
落ち着け、私。どこか違う場所に保存したのかもしれない。
検索をかける。ファイル名で、拡張子で、思いつく限りのキーワードで。
けれど、結果は「0件」。
冷や汗が、背中を伝う。
どうして? なんで? 昨日、確かにここに保存したはずなのに。
その時、ふと、昨夜の出来事が脳裏をよぎった。
終電間際まで残業していた私に、沙織が「お疲れ様」とコーヒーを差し入れてくれた。
「明日、頑張ってね」と、珍しく優しい笑顔で。
あの笑顔。
あの優しさ。
あれは、全部――。
血の気が、引いていく。
全身が、氷のように冷たくなっていく。
「あら、佐藤さん、どうしたの? そんな真っ青な顔して」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、完璧なメイクと、完璧な笑顔を浮かべた沙織が立っていた。その目に、私にしかわからない、嘲るような光が浮かんでいる。
「プレゼンのデータが……ないの……」
「ええっ!? 大変じゃない! バックアップは?」
「……ない。デスクトップにしか、置いてなかったから……」
私の絶望に満ちた声を聞いて、沙織はわざとらしく眉を下げた。
「困ったわねぇ……。でも、大丈夫よ」
彼女はそう言うと、自分のPCを立ち上げながら、悪魔のように囁いた。
「私のほうのデータは、ちゃんとあるから。市場戦略の部分だけでも、なんとかなるわ。あなたのコンセプト部分は……残念だけど、仕方ないわよね?」
ああ、そうか。
これが、彼女の狙いだったんだ。
私から、全てを奪うこと。
私の声を、私の光を、この世界から完全に消し去ること。
ガラガラと、足元から世界が崩れていく音がした。
せっかく取り戻しかけた自信も、未来への希望も、全てが粉々に砕け散る。
私は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
沙織は、勝ち誇った笑みを浮かべて、悠然とプレゼンの準備を始めている。
もう、終わりだ。
私の戦いは、始まる前に、終わってしまった。
その時、ポケットの中で、スマホが短く震えた。
画面に表示されたのは、奏太からのメッセージ。
『明日の撮影、楽しみにしてる』
その、あまりにも無邪気な文字列が、今はただ、私の心をえぐる。
撮影?
楽しみ?
そんな資格、今の私にあるはずがない。
私はまた、あの「死んだ魚の目」に戻ってしまったのだから。
いや、それ以下の、撮る価値さえもない、空っぽの人形に。
この文章を友達にシェアしよう
