
一番嫌いな、本当の私
結局、私はプレゼンに出ることなく、会社から逃げ出した。
どうやって家にたどり着いたのか、記憶は曖昧だ。気づけば私は、電気もつけず、カーテンも閉め切った真っ暗な自室のベッドの上で、ただ小さくうずくまっていた。
スマホが、何度も何度も着信を知らせている。きっと、上司からだろう。無断で会社を飛び出したことへの叱責か、あるいは、クライアントへの謝罪を求める連絡か。
どうでもよかった。
もう、何もかも。
私は、空っぽになった。
デザインをすることも、誰かと話すことも、何かを食べる気力さえも湧いてこない。ただ、暗闇の中で息を潜め、世界から消えてしまいたいと願うだけ。
ほら、やっぱり私には無理だったんだ。
少し自信を取り戻した気になって、舞い上がっていただけ。本当の私は、才能も、強さも、何も持っていない。沙織の言う通り、優秀な人間の影で、言われたことだけをやっていればよかったのだ。
一番嫌いな、本当の私。
それは、何かを望むくせに、傷つくことを恐れて何もできず、言い訳ばかりして、結局はこうして暗い穴の中に逃げ込む、弱い自分。
その時、インターホンが鳴った。
無視する。どうせ、会社の誰かだろう。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るはずだ。
しかし、呼び出し音は、しつこく、何度も繰り返される。やがて、ドアを直接叩く音に変わった。
「おい、いるんだろ、佐藤」
その声に、心臓が跳ねた。
奏太だった。
なんで、この人が。どうして、家を。
ああ、そうだ。モデルの依頼の時、緊急連絡先として伝えてあったんだ。
私はベッドから出ず、死んだふりを続けた。彼にだけは、こんな無様な姿、絶対に見られたくない。
「開けろ。死んだ魚の目が、本物の腐った魚になる前に、どうにかしてやる」
「……っ!」
相変わらずの、失礼な物言い。
けれど、その声は、なぜか私の心の扉をこじ開けようとする。
私は耳を塞ぎ、頭から布団をかぶった。帰って。お願いだから、放っておいて。
しかし、彼は諦めなかった。やがて、ドアの向こうから、静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。
「あんたが戦うって言うから、撮ってやろうと思ったんだ。なのに、なんだそのザマは」
その言葉に、私は弾かれたようにベッドから飛び起きた。
勢いよくドアを開け、彼の顔を見るなり、ありったけの力で叫んだ。
「あなたに私の何がわかるのよ!」
涙が、また溢れてくる。
ボサボサの髪も、ヨレヨレの部屋着も、もうどうでもよかった。
「戦う? 誰が!? 私がいつそんなこと言ったのよ! 勝手に期待して、勝手に失望して……! いつもそう! あなただけじゃない、みんなそう! もう、うんざりなの! 私に構わないで!」
ドアを力任せに閉めようとする。
だが、そのドアは、奏太の差し出した腕によって、ぴたりと止められた。
「……ああ、わかんねえよ」
彼の声は、驚くほど静かだった。
「あんたの気持ちなんて、わかりたくもねえ。他人の絶望なんて、しょせんは他人事だ」
彼は無理にドアを開けようとはせず、ただ、その隙間から、暗い部屋の中にいる私をじっと見つめていた。
「……俺にも、いたんだ。未来を約束した、恋人が」
唐突な言葉に、私は動きを止めた。
「そいつも、あんたみたいに、何かを作るのが好きなやつだった。俺は、そんなあいつを撮るのが、何より好きだった。……でも、死んだよ。俺の運転してた車の、事故でな」
奏太の目が、遠い過去を見つめていた。その瞳に宿る痛みの色に、私は息を呑んだ。
「それから、俺はカメラを握れなくなった。シャッターを押そうとすると、あいつの最後の顔が浮かんでくる。夢も、未来も、全部捨てて、ただ逃げた。……今も、逃げてる最中だ」
彼は、ふっと自嘲するように笑った。
「だから、俺が言うなよな。……逃げた俺が言う資格なんて、これっぽっちもねえけど」
奏太は、私と、真っ直ぐに目を合わせた。
「あんたは、まだ戦えるだろ」
それだけ言うと、彼は静かにドアから手を離し、背を向けて去っていった。
バタン、と閉まったドアの音が、静まり返った部屋に響く。
私は、その場にへたり込んだ。
彼の言葉が、彼の痛みが、私の心に重くのしかかる。
逃げた……?
あの人が?
あんなに、真っ直ぐな目で、写真を撮る人が?
私は、震える手で、壁に立てかけてあったスケッチブックを手に取った。
パラパラとページをめくる。
そこには、奏太に撮られている時に描いた、生命力に溢れたデザインのラフ画があった。
クライアントの言葉を、奏太の言葉を、自分なりに解釈して、生み出した、私の「光」。
そして、思い出す。
奏太が撮ってくれた、あの写真。
怒りと、悔しさと、それでも何かを訴えようとしていた、あの時の私の顔。
あれが、本当の私。
一番嫌いな、でも、一番私らしい、本当の私。
奏太の言葉が、頭の中で反響する。
『あんたは、まだ戦えるだろ』
涙が、スケッチブックの上に落ちて、インクを滲ませた。
でも、それは、絶望の涙ではなかった。
「……私は……」
声が、漏れる。
「私は、まだ、終わりたくない……!」
そうだ。
終わりになんて、させてたまるか。
沙織に、こんなところで、私の全てを奪わせてたまるか。
私は、涙を乱暴に拭うと、スマホを手に取った。
震える指で、電話帳を開く。
そして、ある人物の名前を探し出し、通話ボタンを、強く、強く押した。
この文章を友達にシェアしよう
