一番嫌いな、本当の私、逃げ出した主人公を奏太が叱咤激励するエピソード4の表紙イメージ

一番嫌いな、本当の私

結局、私はプレゼンに出ることなく、会社から逃げ出した。

どうやって家にたどり着いたのか、記憶は曖昧だ。気づけば私は、電気もつけず、カーテンも閉め切った真っ暗な自室のベッドの上で、ただ小さくうずくまっていた。

スマホが、何度も何度も着信を知らせている。きっと、上司からだろう。無断で会社を飛び出したことへの叱責か、あるいは、クライアントへの謝罪を求める連絡か。

どうでもよかった。

もう、何もかも。

私は、空っぽになった。

デザインをすることも、誰かと話すことも、何かを食べる気力さえも湧いてこない。ただ、暗闇の中で息を潜め、世界から消えてしまいたいと願うだけ。

ほら、やっぱり私には無理だったんだ。

少し自信を取り戻した気になって、舞い上がっていただけ。本当の私は、才能も、強さも、何も持っていない。沙織の言う通り、優秀な人間の影で、言われたことだけをやっていればよかったのだ。

一番嫌いな、本当の私。

それは、何かを望むくせに、傷つくことを恐れて何もできず、言い訳ばかりして、結局はこうして暗い穴の中に逃げ込む、弱い自分。

その時、インターホンが鳴った。

無視する。どうせ、会社の誰かだろう。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るはずだ。

しかし、呼び出し音は、しつこく、何度も繰り返される。やがて、ドアを直接叩く音に変わった。

「おい、いるんだろ、佐藤」

その声に、心臓が跳ねた。

奏太だった。

なんで、この人が。どうして、家を。

ああ、そうだ。モデルの依頼の時、緊急連絡先として伝えてあったんだ。

私はベッドから出ず、死んだふりを続けた。彼にだけは、こんな無様な姿、絶対に見られたくない。

「開けろ。死んだ魚の目が、本物の腐った魚になる前に、どうにかしてやる」

「……っ!」

相変わらずの、失礼な物言い。

けれど、その声は、なぜか私の心の扉をこじ開けようとする。

私は耳を塞ぎ、頭から布団をかぶった。帰って。お願いだから、放っておいて。

しかし、彼は諦めなかった。やがて、ドアの向こうから、静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。

「あんたが戦うって言うから、撮ってやろうと思ったんだ。なのに、なんだそのザマは」

その言葉に、私は弾かれたようにベッドから飛び起きた。

勢いよくドアを開け、彼の顔を見るなり、ありったけの力で叫んだ。

「あなたに私の何がわかるのよ!」

涙が、また溢れてくる。

ボサボサの髪も、ヨレヨレの部屋着も、もうどうでもよかった。

「戦う? 誰が!? 私がいつそんなこと言ったのよ! 勝手に期待して、勝手に失望して……! いつもそう! あなただけじゃない、みんなそう! もう、うんざりなの! 私に構わないで!」

ドアを力任せに閉めようとする。

だが、そのドアは、奏太の差し出した腕によって、ぴたりと止められた。

「……ああ、わかんねえよ」

彼の声は、驚くほど静かだった。

「あんたの気持ちなんて、わかりたくもねえ。他人の絶望なんて、しょせんは他人事だ」

彼は無理にドアを開けようとはせず、ただ、その隙間から、暗い部屋の中にいる私をじっと見つめていた。

「……俺にも、いたんだ。未来を約束した、恋人が」

唐突な言葉に、私は動きを止めた。

「そいつも、あんたみたいに、何かを作るのが好きなやつだった。俺は、そんなあいつを撮るのが、何より好きだった。……でも、死んだよ。俺の運転してた車の、事故でな」

奏太の目が、遠い過去を見つめていた。その瞳に宿る痛みの色に、私は息を呑んだ。

「それから、俺はカメラを握れなくなった。シャッターを押そうとすると、あいつの最後の顔が浮かんでくる。夢も、未来も、全部捨てて、ただ逃げた。……今も、逃げてる最中だ」

彼は、ふっと自嘲するように笑った。

「だから、俺が言うなよな。……逃げた俺が言う資格なんて、これっぽっちもねえけど」

奏太は、私と、真っ直ぐに目を合わせた。

「あんたは、まだ戦えるだろ」

それだけ言うと、彼は静かにドアから手を離し、背を向けて去っていった。

バタン、と閉まったドアの音が、静まり返った部屋に響く。

私は、その場にへたり込んだ。

彼の言葉が、彼の痛みが、私の心に重くのしかかる。

逃げた……?

あの人が?

あんなに、真っ直ぐな目で、写真を撮る人が?

私は、震える手で、壁に立てかけてあったスケッチブックを手に取った。

パラパラとページをめくる。

そこには、奏太に撮られている時に描いた、生命力に溢れたデザインのラフ画があった。

クライアントの言葉を、奏太の言葉を、自分なりに解釈して、生み出した、私の「光」。

そして、思い出す。

奏太が撮ってくれた、あの写真。

怒りと、悔しさと、それでも何かを訴えようとしていた、あの時の私の顔。

あれが、本当の私。

一番嫌いな、でも、一番私らしい、本当の私。

奏太の言葉が、頭の中で反響する。

『あんたは、まだ戦えるだろ』

涙が、スケッチブックの上に落ちて、インクを滲ませた。

でも、それは、絶望の涙ではなかった。

「……私は……」

声が、漏れる。

「私は、まだ、終わりたくない……!」

そうだ。

終わりになんて、させてたまるか。

沙織に、こんなところで、私の全てを奪わせてたまるか。

私は、涙を乱暴に拭うと、スマホを手に取った。

震える指で、電話帳を開く。

そして、ある人物の名前を探し出し、通話ボタンを、強く、強く押した。

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