サインと、偽りの結婚初日、署名と新生活が始まるエピソード3の表紙イメージ

サインと、偽りの結婚初日

# 第3話 サインと、偽りの結婚初日

 あの男、久遠 彰が去った後も、栞は、ただ呆然と、ドアの前に立ち尽くしていた。

 手の中には、ずしりと重い契約書の束。テーブルの上には、すっかり冷え切ってしまった、三百円のお弁当。あまりにも不釣り合いな二つのものが、今の自分の現実だった。

 一晩中、栞は眠れなかった。

 ベッドに横になっても、彰の、感情の読めない瞳と、低く、よく通る声が、頭から離れない。

『私と、結婚していただきたい』

 それは、あまりにも非現実的な言葉。けれど、手元にある契約書は、それが紛れもない現実であることを、冷たく告げていた。

 栞は、何度も、心の中で天秤にかけた。

 このまま、この提案を断れば、何も変わらない。借金に追われ、自分の夢も、幸せも、すべてを諦めたまま、ただ、息を潜めるように生きていくくだけの毎日が続くだけだ。それは、確実な、緩やかな絶望。

 では、この提案を受け入れたら?

 借金は、なくなる。母を、安心させることができる。けれど、その代わりに、私は、私自身を、一年間、売り渡すことになるのだ。久遠 彰という、赤の他人の、偽りの妻として。

 それは、あまりにも恐ろしい。けれど、今のこの生活から抜け出せるかもしれない、唯一の、蜘蛛の糸。

 栞は、枕元に置いてある、母の写真に目をやった。優しく微笑む、母。病気と闘いながらも、電話の向こうでは、いつも、栞のことばかりを心配してくれる。

『ごめんね、栞』

 母の、あの、か細い声が、耳の奥で蘇る。

 もう、母に、あんな顔をさせたくない。お金のことで、心を痛めてほしくない。

 もし、私の、この一年で、母が、心から安心して暮らせるのなら。

 夜が、白み始めた頃。

 栞は、静かに、ベッドから起き上がった。そして、テーブルの上の契約書の、一番最後のページを開く。

 震える手で、ペンを握った。

 そこに、「日向 栞」という名前を、一文字、一文字、刻み込むように、書き付けた。

 約束の時間きっかりに、インターホンが鳴った。

 ドアを開けると、昨日と寸分違わぬ、完璧なスーツ姿の彰が立っていた。

「おはようございます」

 栞は、深く、深く、頭を下げた。

「……契約、お受けします」

 彰は、何も言わなかった。ただ、栞が差し出した契約書を受け取ると、その内容に、素早く目を通すだけ。

「分かりました。では、行きましょうか」

 その声には、何の感情もこもっていなかった。まるで、打ち合わせの場所を移動するかのような、事務的な響き。

 栞の、人生を賭けた決断は、彼にとって、その程度のものなのだ。

 そう思うと、少しだけ、胸が痛んだ。

 彰の運転する、高級車が向かった先は、区役所だった。

 休日窓口の、閑散としたフロア。事務的な手続きを、ただ、こなしていく。

「こちらに、ご記入ください」

 職員に促され、栞は、婚姻届、という書類に、再び、自分の名前を書いた。そして、彰の名前の隣に。

 紙切れ一枚。けれど、それは、法的に、二人が夫婦になったことを示す、絶対的な証。

 自分の名前が、「久遠 栞」に変わる。その事実が、まだ、どうしても、他人事のようだった。

 区役所を出ると、彰は、栞が住んでいたアパートへと車を走らせた。

「荷物を、まとめてください。必要最低限のもので、結構です」

 部屋に戻り、栞は、一番大きなスーツケースに、自分の荷物を詰めていく。と言っても、このマンションに持ってきた、着古した服や数冊の本だけだ。

 彰は、その様子を、ただ、黙って見ていた。

 そして、車は、再び、あのタワーマンションへと向かった。

 先日、彰が待っていた、重厚なドアの前。今度は、栞が、その内側へと足を踏み入れる番だった。

「お待ちしていました。こちらへ」

 彼がドアを開けると、栞は息を呑んだ。

 目の前に広がっていたのは、生活感というものが一切存在しない、広大で無機質な空間。床から天井まで続く窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。

「あなたの部屋は、廊下の突き当りです。必要なものは全て揃っているはず」

 彰は、淡々と、部屋の説明をする。

「ああ、それから」

 彼は、テーブルの上に置かれていた封筒を、無造作に栞へと手渡した。

「これが、お父様の債務を完済した証明書です」

 そこには、あの忌まわしい数字が並んだ借用書に、確かに「完済」の赤い印が押されていた。

 涙が、滲んだ。長年、彼女の肩に重くのしかかっていた鎖が、この紙切れ一枚で、あっけなく消え去ったのだ。

「ありがとうございます……」

 深く、深く頭を下げる栞に、彰は興味なさそうに「契約ですから」とだけ呟いた。

 そして、彼は、栞を一人、その広すぎるリビングに残して、書斎へと消えていく。

「何かあれば、AIコンソールで呼べ」

 その言葉だけを残して。

 一人、豪華な硝子の箱に閉じ込められた、孤独な置物。

 それが、偽りの妻、「久遠 栞」の、結婚初日だった。

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