匿名希望の軍師、はじめました、ファン管理人が匿名で犯人調査に乗り出すエピソード3の表紙イメージ

匿名希望の軍師、はじめました

軍師殿、か。

その言葉の響きを、私は一晩中、何度も何度も布団の中で繰り返していた。スマホの画面には、ハル――いや、如月律さんとの、にわかには信じがたいチャットの履歴が残っている。まるで夢みたいだ。いや、いっそ夢であってほしい。ただのしがないオタク会社員である私が、神(推し)の窮地を救うための片棒を担ぐなんて、荷が重すぎるにも程がある。

『おはようございます、軍師殿。早速で申し訳ないのですが、何か手掛かりは掴めそうでしょうか』

翌朝。通勤ラッシュの満員電車に押し込まれ、死んだ魚のような目をしながらスマホを確認すると、彼からメッセージが届いていた。おはようございます、じゃないんだよ。こっちはあなたのせいで心臓がもたなくて、一睡もできていないというのに。そんな軽口を叩けるはずもなく、私はそっとため息をついた。

「……やるしかない、か」

誰にも聞こえないくらいの声で呟き、私は覚悟を決めた。もう後戻りはできないのだ。

匿名希望の軍師、結城あかり。いざ、出陣である。

会社の昼休み。私は給湯室の隅の、誰からも注目されない特等席で、スマホを片手にサンドイッチを頬張りながら、猛烈な勢いでネットの海を泳いでいた。もちろん、表向きは「新作コスメの口コミをチェックしている美意識の高いOL」の完璧な擬態を崩さない。同僚の真紀あたりが見たら、「あんた、またそんな顔して。どうせ推し関連でしょ」と一発で見抜いてくるだろうが、幸い彼女は今日、外でランチらしい。

まず、ターゲットは炎上の火元となった、最初のスキャンダル画像を投稿したSNSアカウントだ。アカウント名は『真実の告発者』。あまりの安直さに、思わず鼻で笑ってしまいそうになる。

プロフィールは空っぽ、過去の投稿も今回の件が初めて。典型的な、炎上目的の捨てアカウントだ。だが、どんな人間でも、ネットの海に足跡を残さないなんてことはありえない。

私は、過去にファンサイトへの悪質な荒らし行為を繰り返したアンチを特定した経験から、いくつかの調査ツールとノウハウを蓄積していた。オープンソースの解析ツールをいくつか組み合わせ、まずは『真実の告発者』のわずかな痕跡を拾い集めていく。

最初に調べたのは、投稿画像のメタデータ。……さすがに、位置情報などは綺麗に削除されている。だが、画像の圧縮形式に、特定のマイナーな画像編集ソフトの痕跡を見つけた。これは、数年前に開発が停止したフリーソフトで、今どき使っている人間はそう多くないはずだ。

次に、投稿時間。最初の投稿は、深夜の2時17分。その後、炎上を煽る第二、第三の投稿は、朝の7時43分、昼の12時22分。まるで、世間の注目が集まる時間を的確に狙い撃ちしているかのようだ。通勤・通学ラッシュと、昼休み。ネットニュースのトップに表示されやすい時間を熟知している動きだ。

(……素人じゃない。ネットのトレンドや、人の動きを、ある程度読める人間だ)

さらに、私は『真実の告発者』が投稿した文章の、僅かな言葉の癖に注目した。

句読点の使い方、特定の漢字の選択、そして何より、ごく稀に混じる、業界用語のような言い回し。こういう細かい部分にこそ、人間の本質は現れる。

(間違いない。犯人は、芸能界の内部、あるいはその周辺にいる人間だ。それも、テレビ関係の仕事をしている可能性が高い)

そこまで推測したところで、私は一度スマホから顔を上げた。心臓が、ドクドクと嫌な音を立てている。これは、私が思っていたよりも、ずっと根が深い事件なのかもしれない。単なるアンチの嫌がらせではない。明確な悪意を持った、内部の人間による犯行。

その日の夜。私は律さんに、満を持して調査結果を報告することにした。

『いくつか、ご報告があります』

『本当ですか!』

ものの数秒で返信が来る。食い気味のメッセージに、画面の向こうで、彼がどれだけこの報告を待ちわびていたかが伝わってくる。

『まず、犯人が使用したと思われる画像編集ソフトを特定しました。かなりマイナーなものです。次に、投稿時間。これは明らかに、ネットニュースのトップを狙った戦略的な時間帯です。そして、最も重要なのが……』

私は、一度言葉を区切る。焦らす、というよりは、自分の心を落ち着けるためだ。

『犯人は、芸能界の内部事情、特にテレビ業界に詳しい人間の可能性が非常に高いです。投稿された文章に、いくつか専門用語に近い言葉の混入が見られました』

『……!』

律さんからの返信はない。ただ、画面の向こうで息を呑む気配だけが伝わってくるようだった。

『例えば、第二波の投稿で使われた「バミる」という言葉。これは、テレビスタジオなどで、演者やカメラの立ち位置などを決める際に使われる隠語です。一般的な言葉ではありません』

『……すごい』

やがて、ぽつりと、そんな言葉が返ってきた。

『すごい……。そこまで分かるのか。君は、一体……』

その言葉に、私は少しだけ得意な気持ちになる。そうだ、私はただのオタクじゃない。ハル様への愛と情熱で、ハッキングまがいのスキルを身につけた、スーパーオタクなのだ。

『まだあります。炎上の火元となったアカウントですが、発信元のIPアドレスを追跡したところ、ごく大まかですが、発信地域が都内の一部エリアに絞り込めました。もちろん、VPNなどを経由している可能性は高いですが、これも重要な手掛かりの一つです』

『……信じられない』

律さんは、また黙ってしまった。

数分間の沈黙。私は、何か言い過ぎてしまっただろうかと、少し不安になる。素人があまり出しゃばりすぎただろうか。

やがて、スマホが震えた。

『ありがとう。本当に、ありがとう。君がいなければ、何も分からなかった。正直、もう何を信じていいか分からなくなっていたんだ』

弱音、と呼ぶにはあまりにも率直な言葉だった。

いつも完璧な姿しか見せない彼が、初めて見せた隙。その隙間に、私は触れてもいいのだろうか。

『……律さん』

思わず、彼の本名を打ってしまっていた。

しまった、と焦って送信を取り消そうとするが、指がもつれて間に合わない。

『……僕の名前を知ってるんだ』

当たり前だ。ファンなのだから。でも、彼からすれば、匿名の協力者が自分の本名を知っているのは、不気味に感じるかもしれない。

『すみません、出過ぎたことを』

『いや、いいんだ。むしろ、嬉しい。誰かに、ハルとしてじゃなく、如月律として話を聞いてもらえている気がする』

その言葉に、胸が締め付けられる。

彼は、たった一人で、孤独だったのだ。

『君は、一体何者なんだ……?』

再び、同じ問いが投げかけられる。

その問いに、私はどう答えるべきか、もう迷わなかった。

『私は、あなたの潔白を信じている、ただのファンです』

それが、私の、唯一にして最大の答えだった。

画面の向こうで、律さんがどんな顔をしているのか。私には、知る由もなかった。ただ、この瞬間、私たちは確かに、ただのファンと推しという関係を超えた、「共犯者」になったような気がした。

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