
初めまして、のはずですよね?
『直接会って、お話がしたいです』
律さんからそのメッセージが届いたのは、匿名軍師としての密なやり取りが始まってから、三日目の夜のことだった。
私の調査報告と、彼の持っている内部情報。それらをパズルのピースのように組み合わせ、少しずつ犯人像が輪郭を現し始めた、そんな矢先の、あまりにも唐突な提案だった。
(会う……? 直接……?)
ありえない。絶対に、ありえない。
私は匿名を条件に協力しているのだ。そもそも、ただのファンが推しと私的に会うなんて、そんな禁忌を犯してはならない。それがこの世界の絶対的なルールだ。
『お断りします。私は、あくまで匿名の協力者ですので。直接お会いするのは、当初の約束と違います』
私は、鋼の意志でそう返信した。はずだった。我ながら完璧な、理路整然としたお断りの文面だ。
『お願いします。どうしても、直接お礼が言いたいんです。それに、チャットだけでは伝えにくい、重要な情報もあります。もちろん、ご迷惑にならないように、万全の対策はしますから』
画面の向こうから伝わってくる、彼の切実な響き。それに、「重要情報」という、こちらの知的好奇心を的確に撃ち抜くパワーワード。
……ぐらり、と鋼の意志に亀裂が入る音がした。
『……』
『場所は、僕の行きつけのカフェの個室です。時間は、明日の14時。変装してきてもらえれば、誰にも気づかれません。僕も、完璧に変装していきます。お願いです、軍師殿。あなたにしか、頼めないんだ』
ダメだ、ダメだ、結城あかり。一線を越えてはいけない。ここで頷いたら、もうただのファンではいられなくなる。
そう思うのに、私の指は、脳の指令を無視して、勝手にこう打ち込んでいた。
『……分かりました。一度だけですよ。本当に、一度だけですからね!』
ああ、私の馬鹿。鋼の意志、豆腐メンタルよりもろい。最後の抵抗として付け加えた「一度だけですからね!」という一文が、我ながら情けなくて涙が出そうだ。
そして翌日。私は、人生で一番入念な変装を施し、指定された都心のおしゃれなカフェの前に立っていた。
だて眼鏡に、マスク。普段は絶対に着ないような、くすんだオリーブ色のパーカー。髪型も三つ編みにして、キャップを深く被っている。これなら、会社の同僚どころか、親でさえ私だと気づかないだろう。
(いや、でも、なんで私がここまで……。ただのファンなのに、推しに会うために必死で変装して……。これじゃどっちが芸能人か分からないじゃない)
自己嫌悪に陥りながらも、店のドアを開ける。カラン、と涼やかなベルの音が鳴った。店員に予約名である「佐藤」という、あまりにも普通な偽名を告げると、奥の個室へと案内された。
コンコン、と控えめにドアをノックする。心臓が、肋骨を突き破って飛び出しそうだ。
「……どうぞ」
中から聞こえてきたのは、紛れもなく、イヤホン越しに、画面越しに、何度も何度も聞いた、あの声。それだけで、全身の血が沸騰しそうになる。
意を決してドアを開けると、そこにいたのは――。
「ど、どうも……」
キャップを目深に被り、度の入っていなそうな黒縁の眼鏡をかけた、背の高い男性。声は確かに律さんだが、その姿は、私が知っている完璧な俳優「ハル」とは、どこかかけ離れていた。
「初めまして、軍師殿。……いや、ええと」
「あ、あかり、です。結城あかり、と申しますっ」
思わず、噛んだ。そして本名を名乗ってしまった。匿名とは、一体なんだったのか。私の豆腐メンタルが、音を立てて崩れていく。
律さんは、私のその言葉に、少しだけ驚いたように目を見開いて、それから、ふわりと、本当に柔らかく微笑んだ。
「律です。如月律。……やっと、会えましたね、あかりさん」
その笑顔は、反則だ。
テレビで見る計算され尽くしたキメ顔じゃない。もっと、素朴で、柔らかい、ただの「如月律」という青年の笑顔。
私は、それだけで、今日ここに来てよかった、なんて単純にも思ってしまった。
「さて、何から話しましょうか。……あ、その前に、何か飲み物を」
律さんがテーブルの上のタブレットを手に取る。しかし、その動きが、なんだかぎこちない。最新鋭の機械を前にした、おじいちゃんのような動きだ。
「ええと、これは……どうやって注文するんですかね?」
「え?」
「いや、いつもはマネージャーが全部やってくれるもので……。ははは」
ぽりぽりと頬をかきながら、照れ笑いを浮かべる律さんに、私は、信じられないものを見るような目で彼を見つめていた。
嘘でしょ? 今どき、タッチパネルで注文もできないの? この人、本当に現代人?
「……貸してください」
私は、半ばひったくるようにタブレットを受け取ると、慣れた手つきで操作し、二名分のドリンクを注文した。
「すごい、早いんですね。さすが軍師殿。俺、そういうの、本当に苦手で」
「いえ、これはそういう問題じゃ……」
なんだろう、この感じ。天界に住む神様だと思っていた存在が、目の前で、ただの世間知らずで機械音痴な青年に成り下がっていく。幻滅、というのとは少し違う。もっと、こう、庇護欲をかき立てられるような……?
ドリンクが運ばれてきて、私たちは改めて向き合った。
「それで、重要情報というのは?」
私が切り出すと、律さんはハッとしたように真剣な表情に戻り、一枚のメモを取り出した。
「犯人が使っているSNSアカウントですが、どうやら、僕の昔のファンが作ったアカウントを乗っ取っている可能性があるんです」
「……!」
それは、全く予想していなかった情報だった。
「僕がまだ、ほんの駆け出しだった頃の。……その、昔の芸名で活動していた時の、です」
彼の言葉に、私は息を呑む。そんな昔の情報、ファンサイトを運営している私ですら、知らない。
「それで、会計ですが……」
話が一段落し、私が伝票を手に取ると、律さんが「あ、僕が払います」と、分厚い財布を取り出した。
「いえ、自分の分は自分で……」
「いいんです。今日はお礼も兼ねているので。軍師殿には、本当にお世話になっていますから」
そう言って、彼が取り出したのは、数枚の万札だった。
「……律さん。ここ、現金、使えないみたいです」
レジの横に掲げられた「キャッシュレス決済のみ」の小さなプレートを指差しながら、私は、もはや呆れた声で言った。
「え」
固まる律さん。その顔は、まさに「鳩が豆鉄砲を食ったよう」という表現がぴったりだった。
「キャッシュ……レス……?」
「つまり、クレジットカードとか、電子マネーとか、そういうのです」
「でんし、まねー……?」
ダメだ、この人。本当にダメだ。
私の頭の中で、何かが、ぷつりと大きな音を立てて切れた。
「律さん! いいですか、今の時代、キャッシュレス決済くらいできないと、生きていけませんよ! そもそも、なんでそんな大金持ち歩いてるんですか! 危ないでしょう! マネージャーさんは何を教えてるんですか!」
「え、あ、はい……すみません……」
完全に、素の私だった。
会社の頼りない後輩に、懇切丁寧に社会の仕組みを説教する時と、全く同じ口調。
神(推し)を相手に、私は一体、何をやっているんだ。
自己嫌悪で頭を抱える私を、律さんは、きょとんとした顔で見つめていた。
そして、次の瞬間。ふはっ、と吹き出した。
「あはは! すみません、なんだか、すごく面白い」
「……は?」
「いや、こんな風に、誰かに本気で叱られたの、初めてで。……でも、なんだろう。すごく、懐かしい感じがするんです。昔、よくこうやって……」
そこまで言って、律さんは、何かを思い出すように、ふと遠い目をした。
そう言って笑う彼の顔は、やっぱり、ただの気のいい青年の顔をしていた。
初めまして、のはずなのに。
私たちは、どうして、こんなにも自然に話せているんだろう。
私の心の中に、また一つ、大きな疑問符が浮かんだ。それは、事件の謎とは、また別の種類の、温かくて、少しだけくすぐったい、そんな疑問符だった。
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