
乾いた心と好青年
ダイニングテーブルに並ぶのは、二人分にしては少しだけ品数の多い夕食。鶏肉のハーブ焼きに、彩り野菜のサラダ、きのこのポタージュ。かつて料理教室で習った、彼の好物だったものばかりだ。我ながら、完璧な出来栄えだと思う。でも、その努力に彼が気づくことは、もうない。
結婚して五年。新婚当初は「優奈の料理は世界一だ」と毎日言ってくれたはずの食卓は、今ではただ過ぎていくだけの作業の場に変わってしまった。
「……」
「……」
カトラリーが白磁の皿に当たる、冷たく乾いた音だけがやけに大きく部屋に響く。
向かいに座る夫は、スマホの画面に視線を落としたまま、時折思い出したように食事を口に運ぶだけ。私が一生懸懸命作った料理の味なんて、きっともう分かっていないのだろう。会話なんて、もうどれくらい交わしていないだろうか。
「ねえ、あなた」
「ん?」
私が意を決して声をかけても、彼は顔を上げようともしない。その無関心な態度に、胸の奥がちくりと鈍く痛む。まるで、私という存在がこの空間にいないみたいだ。いるのに、見えていない。それが何よりもつらかった。
女性としての自信なんて、とうの昔に乾ききってしまった。鏡に映る自分は、ただ家事に追われ、歳を重ねただけの、色のない女。夫にとって私は、生活を維持するための便利な同居人でしかないのだろう。
「今度の日曜、後輩を連れてきてもいいか」
不意に、夫が言った。
あまりに唐突で、あまりに珍しい申し出に、私は一瞬、反応ができなかった。
「後輩? 会社の方?」
「ああ。ちょっと家に用事があってな」
「ええ、もちろん。構わないわ」
「そうか。じゃあ、適当に何か作っておいてくれ」
それだけ言うと、夫は再びスマホの画面に没頭していく。
(適当に、か……)
その言葉が、また私の心を静かに、深く抉る。昔は、私の手料理をあんなに喜んでくれたのに。記念日には、彼の好きなものばかりをテーブルいっぱいに並べたこともあった。そんな記憶さえ、彼の中からは消えてしまったのかもしれない。それでも、誰かが家に来るという小さな変化が、よどんだ日常に一石を投じてくれたような気がして、ほんの少しだけ胸が躍ったのも事実だった。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。そんな淡い、愚かな期待を抱いてしまったのだ。
そして、日曜日。
約束の時間きっかりに鳴ったインターホンの音と共に現れた青年は、私の想像をはるかに超えて、爽やかで、礼儀正しい人だった。
「はじめまして。ご主人様にはいつもお世話になっております。一颯(いっさ)と申します」
すっと差し出されたのは、有名なパティスリーのロゴが入った上品な箱。きれいに切りそろえられた黒髪。白いシャツはのりがきいていて、清潔な香りがふわりと漂う。スーツ越しにも分かる、若く引き締まった体つき。そして何より、私を真っ直ぐに見つめる、曇りのない実直な瞳。
久しぶりに向けられる、自分よりずっと若い男性からの純粋な眼差しに、私はどうしようもなくうろたえていた。どうしていいか分からず、視線が泳ぐ。
「妻の優奈だ」
「奥様、はじめまして。本日はお招きいただき光栄です。お邪魔いたします」
夫のぶっきらぼうな紹介に、一颯くんは少しも気を悪くした様子もなく、深々と頭を下げる。その丁寧な所作の一つ一つに、彼が大切に育てられてきたことがうかがえた。
「ささ、どうぞ。散らかっているけれど」
私は慌てて二人をリビングに促す。心臓が、ドクン、ドクンと少しだけ速く打っていた。
夫と一颯くんがソファに座り、仕事の話を始めた。「例のプロジェクトの件ですが」と一颯くんが切り出すと、夫も真剣な顔で頷いている。私には分からない、二人の世界。そこにいるのに、見えない壁があるような、そんな疎外感を覚える。
「お待たせしました」
お茶をテーブルに置く。その時、ふと一颯くんの視線が私に注がれていることに気づいた。それは、何かを値踏みするようないやらしさとは無縁の、ただ静かに、それでいて熱を帯びた不思議な視線だった。どきりとして、すぐに目を逸らしてしまう。頬が熱くなるのを感じた。
その後も、彼は夫の話に真剣に耳を傾けながら、その意識の片隅で、常に私を捉えているのが分かった。私が新しいお茶を淹れようと立てば、その動きを目で追い、私が少し離れた場所で家事をすれば、その気配を探っている。まるで、この家の全てを、私という人間を含めて観察しているかのようだ。
自意識過剰だろうか。でも、その静かな視線は、私の乾ききった心に、ぽつり、ぽつりと温かい滴を落とすようだった。忘れられていた女としての部分が、むず痒く疼き始めるのを感じる。
やがて、あっという間に時間は過ぎていく。
「そろそろ、私はこれで」
「そうか。またいつでも来いよ」
「はい。ありがとうございます」
玄関まで二人で見送る。
夫が先に階段を降り、一颯くんが私の方に向き直った。ほんの数秒、二人だけの時間が生まれる。
「お料理、とても美味しかったです」
にこりと、彼は人懐っこい笑みを浮かべる。さっきまでの真剣な表情とのギャップに、また胸が鳴った。
「いえ、そんな……お口に合ったのなら良かったわ」
「はい。本当に。……ごちそうさまでした、優奈さん」
ひそやかな、ささやくような声で、彼は私の名前を呼んだ。
夫の前では一度も「奥さん」としか呼ばなかったのに。二人きりになった、ほんの一瞬の隙を的確に突くように。
彼の唇から紡がれた自分の名前に、心臓がわしづかみされたように大きく跳ねる。それは、夫がもう何年も呼んでくれていない、甘く、特別な響きを持っていた。
「……っ」
私が驚きに言葉を失っていると、彼はまるで私の反応を楽しんでいるかのように、満足そうに口角を上げた。そして、何事もなかったかのようにくるりと背を向け、夫の後を追って帰っていった。
バタン、と重いドアが閉まる。
「あいつ、いいやつだろ」
リビングに戻るなり、夫が言った。今日の彼は少しだけ機嫌が良さそうだ。
「ええ、本当に。真面目そうな方ね」
「だろ? じゃ、俺は書斎にいるから」
それだけ。私の胸の内の大混乱など知る由もなく、夫はさっさと自室に消えていく。
一人、静まり返ったリビングに取り残される。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれていた。
私はそっと、自分の胸に手を当てる。とくん、とくん、と鳴り続ける鼓動が、やけにうるさい。まるで自分の体じゃないみたいだ。
久しぶりに、一人の女性として扱われたような気がした。
ただ名前を呼ばれただけ。それだけなのに。どうしようもなく、嬉しいと思ってしまった自分がいることに、戸惑う。
頬が熱い。胸の奥から、忘れていた甘い感情が、じわりと溶け出していくような感覚。それは、夫ある身の自分には許されない、ほんの少しの罪悪感と、それをいとも簡単に上回る微かな期待の入り混じった、危険な熱だった。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。目を閉じれば、あの真っ直ぐな瞳と、「優奈さん」と呼んだ彼の声が、何度も何度も、飽きることもなく蘇ってくるのだった。
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