
仕組まれた二人きり
あの日から数日。私の日常に、大きな変化はなかった。夫は相変わらず私に関心を示さず、私はただ黙々と家事をこなす。でも、たった一つだけ、決定的に変わってしまったことがある。
私の頭の中から、一颯くんのことが離れないのだ。
彼の真っ直ぐな瞳。私の名前を呼んだ、ひそやかな声。思い出すだけで、胸の奥が甘く疼き、頬が熱くなる。夫がいるのに、他の男性に心をときめかせている。その事実が、罪悪感となって胸に重くのしかかる。いけないことだと分かっているのに、思考は勝手に彼のことを求めてしまう。まるで、乾いた大地に染み込んだ一滴の水のように、彼の存在が私の心を潤し、もっともっとと渇望させていた。
「優奈、これ、悪いが明日の朝までにうちの部の後輩に届けておいてくれ」
夕食の後、夫がリビングのテーブルに分厚いファイルと一枚のメモを置いた。メモには、走り書きで『一颯』という名前と、住所が記されている。
心臓が、ドクンと大きく、鈍い音を立てて跳ねた。まるで、私の心を見透かしたかのようなタイミングだった。
「一颯くん……に?」
「ああ。急ぎなんだが、俺は明日早朝から出張でな。あいつも明日は在宅勤務のはずだ。悪いが頼む」
「……分かったわ」
ただのお使い。それだけのこと。夫に頼まれた、当たり前の用事。そう自分に何度も言い聞かせる。でも、指先が微かに震えているのを止められない。また彼に会える。その事実が、罪悪感と期待の入り混じった複雑な感情を呼び起こし、乾いた心にじわりと染み渡っていく。
翌日、私はクローゼットの前で、いつもより少しだけ長く時間をかけた。派手すぎず、でも、女性らしい柔らかさのあるブラウスを選ぶ。少しだけ念入りに化粧をして、夫に渡されたファイルをハンドバッグにしまい、彼の住むマンションへと向かった。メモの住所が示すのは、オートロック付きの、新しくて綺麗なデザイナーズマンションだった。夫と同じ会社に勤めているとはいえ、彼はまだ若いはず。それなのに、こんな立派な場所に住んでいることに少し驚く。
エントランスのインターホンで部屋番号を押し、彼の声を待つ。
『はい』
スピーカーから聞こえてきたのは、あの日と同じ、落ち着いたテノールの声。私は少しだけ震える声で、用件を告げた。
『ご主人から、書類を預かってまいりました』
『……ありがとうございます。すぐ開けます』
重いガラスのドアが静かに開き、私はエレベーターで彼の部屋がある階へと向かう。上昇していく箱の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。鏡に映る自分の顔が、少し紅潮していることに気づき、慌てて手で頬を冷やす。
部屋のドアの前で、もう一度深呼吸をする。インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開かれた。
「すみません、わざわざ……」
そこに立っていたのは、スーツ姿ではない、ラフなTシャツとスウェットパンツ姿の一颯くんだった。セットされていない髪が、彼の年相応の若さを感じさせる。仕事の時とは違う、無防備な姿。そのギャップに、またしても心臓が大きく音を立てた。彼のプライベートな空間に足を踏み入れるという事実に、緊張が高まる。
「いえ、これ……」
私がファイルを差し出すと、彼はそれを受け取り、そして不意に空を見上げた。
「あ……」
彼の視線の先を追うと、いつの間にか、空は厚い灰色の雲に覆われていた。ぽつり、と私の頬に冷たい滴が落ちる。次の瞬間、それは地面を叩く激しい雨音へと変わった。
「すぐに止むと思いますから。どうぞ、中へ。風邪をひいてしまいます」
あまりに都合の良いタイミング。まるで、全てが仕組まれていたかのような展開。でも、彼の有無を言わせない強い眼差しに、私は断ることができなかった。誘われるまま、彼の部屋へと足を踏み入れる。
部屋の中は、驚くほどシンプルで、きれいに片付いていた。余計なものは何もなく、彼のストイックな性格が表れているようだ。それでいて、間接照明や観葉植物がセンス良く置かれ、彼なりのこだわりも感じられる。ふわりと、彼と同じ、清潔な柔軟剤の香りがした。男の人の部屋なのに、不思議と居心地の悪さは感じない。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、はい。ありがとう」
キッチンに立つ彼の広い背中を、私は勧められたソファに浅く腰掛けたまま、ぼんやりと眺めていた。二人きりの空間。気まずい沈黙。何か話さなければと思うのに、言葉が見つからない。ただ、彼がカップを準備する音だけが、やけに鮮明に耳に残った。
やがて、彼がコーヒーカップを二つ、ローテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう……」
カップを受け取ろうとして、彼の指先が私の手に触れた。びくりと、体が震える。彼は何も言わず、私の向かいのソファに静かに腰を下ろした。その目が、私をじっと捉えている。
何か、何か話さなければ。その一心で、私は部屋の中を見回す。そして、壁際に置かれた本棚に、いくつもの写真立てが飾られているのが目に入った。
そのほとんどは、息をのむほど美しい風景写真だった。彼が撮ったのだろうか。
「素敵な写真ね。ご自分で?」
「ええ、まあ。趣味みたいなものです」
彼は少しだけはにかんだように笑った。その笑顔に、少しだけ緊張がほぐれる。でも、その中の一枚に、私の視線は釘付けになった。
海辺の風景。夕暮れの、オレンジ色に染まる空と海。その砂浜を、一人の女性が歩いている。白いロングスカートを潮風になびかせて、楽しそうに。遠くから撮られた、小さな後ろ姿。
でも、私には分かった。あの髪の長さも、スカートの色も、少し内股気味の歩き方も。それは、間違いなく、去年の夏に友達と海へ行った時の、私自身だった。
血の気が、さっと引いていくのが分かった。全身の熱が奪われ、指先が冷たくなる。どうして、ここに私がいるの? これは、偶然? ありえない。じゃあ、どうして? いつの間に? 誰が?
混乱する頭で、必死に記憶をたどる。でも、思い出せない。こんな写真を撮られた覚えなんて、全くない。恐怖が、じわじわと足元から這い上がってくる。
「あの、この写真……」
声が、震える。私は立ち上がり、その写真立てへと吸い寄せられるように近づいた。
彼は、何も言わない。ただ、静かな、それでいて全てを見通すような瞳で、私をじっと見つめているだけだった。その瞳の奥に、得体の知れない熱が宿っていることに、私はまだ気づいていなかった。
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