
背徳の始まり
あの嵐のようなキスから数日。私は、何もなかったかのように日常の仮面を被り続けていた。朝、鏡に映る自分の顔は、昨日までと同じ主婦の顔のはずなのに、どこか知らない女のように見えて落ち着かない。唇に残る熱の感触を、気のせいだと必死に自分に言い聞かせる。一颯さんから届く『会いたいです』という短いメッセージを、心臓の音を自覚しながら、見てはすぐに削除する。あれは夢。悪い夢だったのだ、と。でも、心のどこかで、そのメッセージを待っている自分もいることに気づいてしまい、自己嫌悪に陥る。
そんな私の脆い平穏は、夫の無邪気な一言によって、いとも簡単に打ち砕かれた。
「優奈、悪いんだけどさ。今夜、一颯をうちに呼んでもいいか? 急ぎでまとめたい資料があって」
夕食の準備をする私の背中に、リビングで寛ぐ夫の声が投げられる。カタン、と手から包丁が滑り落ちそうになった。心臓が、氷水に浸されたように冷たくなる。
「えっ、今夜ですか? 急ですね。もう買い物も済ませてしまいましたし、大したもの、作れませんよ?」
「だから、簡単でいいって。あいつ、そういうの本当に気にしないタチだから。お前の作る煮物でも出しときゃ喜ぶだろ」
「ですけど、私、明日は朝が早いですし、今からお客様の準備となると、少し……」
「そう言わずに頼むよ。仕事なんだ、こっちも。少しだけだから。な?」
仕事、と言われれば、私に断る権利などない。この家では、夫の仕事がすべてに優先されるのだから。
「……わかりました。準備します」
私は血の気の引いた顔で、ただそう頷くことしかできなかった。
一時間後、インターホンが鳴った。モニターに映る、爽やかな笑顔。あの夜の、飢えた獣のような瞳とは似ても似つかない、完璧な「好青年」の顔だった。
「奥さん、こんばんは! 夜分にすみません、お邪魔します!」
玄関を開けるなり、一颯さんは人懐こい笑顔で頭を下げた。その手には、有名なパティスリーの箱が提げられている。「皆さんでどうぞ」と差し出されたそれを受け取る指先が、微かに震える。
リビングに通すと、夫と一颯さんはすぐに仕事の話を始めた。食卓に並ぶのは、あり合わせで作った煮込み料理とサラダ。
「この煮込み、うまいな。一颯も遠慮するなよ」
「はい、いただきます。奥さんの手料理、本当に美味しいです」
私はお茶を淹れ、当たり障りのない相槌を打ちながら、二人の会話を聞いていた。夫の前では、彼はどこまでも「仕事のできる、礼儀正しい後輩」だった。私のことなど、まるで存在しないかのように振る舞う。その完璧な演技力に、私は恐怖すら覚えた。
食事の途中、一颯さんがわざとらしくフォークを床に落とした。彼がそれを拾おうとテーブルの下に屈んだ瞬間、彼の指先が、私の太ももを意図的に、そしてゆっくりと撫でた。
「――っ!」
息を呑み、体を硬直させる。夫は仕事の話に夢中で、こちらには気づく様子もない。テーブルの上では好青年を演じながら、テーブルの下では大胆な接触をしてくる。その心臓が飛び跳ねるようなスリルと罪悪感に、顔に血が集まっていくのがわかった。早く、その手をどけてほしい。でも、どこかで、もっと、と願ってしまう自分がいる。
やがて夫が「少し大事な電話だ」と席を立って書斎へ向かう。静まり返ったリビングに、一颯さんと二人きりで取り残された。気まずい沈黙が、重くのしかかる。
「……優奈さん」
不意に、彼の声のトーンが変わる。さっきまでの明るい響きが消え、あの夜を思い出させる、低く甘い声。びくりと、私の肩が跳ねた。
「そんなに、怯えないでください」
彼はそう言って笑うと、私が片付けようと手を伸ばしたコーヒーカップを、そっと横から奪い取った。その瞬間、彼の手が私の手に触れる。ただそれだけなのに、全身に電流が走ったような衝撃が突き抜けた。
「俺の連絡、無視するのはひどいじゃありませんか。毎日、あなたからの返事を待っているのに。既読にすら、ならない」
恨みがましい声で、彼は私の耳元で囁く。いつの間にか、彼は私のすぐ真後ろに立っていた。振り返ることも、逃げることもできない。
「あなたの好きなケーキ、買ってきたんですよ。……旦那さん、甘いもの苦手だから、あなたが我慢してるの知ってましたから」
「そんなこと……」
「隠さなくてもいいんですよ、俺の前では。俺だけが、あなたの本当の好みを分かってあげられる」
彼の言葉は、どこまでも優しい。それなのに、その優しさは、私の心臓に絡みつく毒のように、じわじわと私を蝕んでいく。
「やめて……夫が、戻ってくるわ」
「何をやめるんですか? あなたのことを、誰よりも大切に想っていることですか?」
彼は私の肩に手を置き、ゆっくりとこちらを向かせる。その瞳は、もうあの爽やかな青年のものではなかった。独占欲と、抗いがたいほどの熱を孕んだ、雄の瞳。
「……っ」
書斎のドアは、まだ閉まったままだ。夫がいつ戻ってきてもおかしくない。そのスリルが、恐怖が、私の理性を麻痺させていく。ダメだとわかっているのに、体が動かない。
「あの日、あなたは俺を拒まなかった。……そうですよね?」
「ちがう……! あれは……事故みたいなものよ。あなたも、どうかしてたのよ」
「事故? 本気で言ってます?」
彼は楽しそうに、残酷に笑う。
「俺は、ずっとあの瞬間を狙ってました。あなたの無防備な唇を、どうやって奪ってやろうかって、毎日……。それを事故で片付けられたら、たまりませんよ」
「お願いだから、やめて。夫が戻ってきたら、大変なことになる……!」
「あの人のことなんて、どうでもいいじゃないですか。それとも、あの人にバレるのが怖いんですか? それとも……俺とのことが、バレるのが?」
「そんなこと、思ってな……」
「本当は、もっと欲しかったんじゃないですか? 俺みたいな男に、めちゃくちゃにされるのを」
「……っ」
「嘘は、ダメですよ。顔に、書いてある」
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、固く目を閉じた。それは、肯定と同じ意味だった。もう、後戻りはできない。背徳の甘い沼に、私は自ら身を沈めていく。
唇に、再びあの熱が触れた。今度は、前回のような乱暴さはない。けれど、より深く、私の全てを味わい尽くすような、ねっとりとしたキス。私は、震える手で、彼のシャツを弱々しく掴んでいた。それは、拒絶ではなく、確かに助けを求めるような仕草だったのかもしれない。この、抗えない快感から。そして、このどうしようもない現実から。どちらからも、もう逃れることはできないのだと、悟りながら。
この文章を友達にシェアしよう
