暴かれた本性と最初のキス、後輩の執着が暴かれ激しいキスを受けるエピソード3の表紙イメージ

暴かれた本性と最初のキス

 ざあざあと、窓ガラスを叩きつける雨音が、この部屋の不自然な静寂を際立たせていた。夫との会話が消えて久しい我が家よりも、なぜかずっと静かに感じられる。手にしたカップが空になっていることに気づき、キッチンを借りようと立ち上がった、その時だった。本棚の奥、分厚い専門書が並ぶその隙間に、白い縁が覗いているのが、偶然目に入ったのだ。指先でつまみ出すと、それは一枚の写真だった。私の指は、その写真のせいで、自分でも気づかないうちに小さく、そして冷たく震えていた。カフェのテラス席で、一人、本を読んでいる私。紛れもなく、私だった。

「一颯さん……これ、どういうこと、なのかな……?」

 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれて、雨音に吸い込まれてしまいそうだった。振り返った一颯さんの顔から、いつも浮かべている人懐こい、人当たりの良い後輩の笑みが、すっと消える。そこに現れたのは、私の知らない、真剣で、どこか暗い熱を帯びた男の表情だった。

「……ああ、見られてしまいましたか」

 彼の声は、驚くほど落ち着いていた。まるで、この瞬間が訪れることを、ずっと待ち望んでいたかのように。何かの間違いであってほしい。夫が仕掛けた、たちの悪い悪戯であってほしい。そんな私の淡い期待は、彼の落ち着き払った一言で無残に打ち砕かれる。心臓が、嫌な音を立てて大きく、そしてゆっくりと脈打った。

「ずっと前から……あなたのことが、好きでした」

 静寂を切り裂いたのは、あまりにも現実離れした、唐突な告白だった。思考が、一瞬にして真っ白に凍り付く。好き? 誰が、誰を? 夫の部下で、礼儀正しくて、爽やかな好青年。そんな彼が、この私を? ありえない。何かの聞き間違いだ。

「何を……言ってるの……? 冗談……だよね?」

「冗談なんかじゃ、ありません」

 きっぱりとした強い声が、私の逃げ道を完全に塞いでしまう。彼はゆっくりと、一歩、また一歩と私との距離を詰めてくる。整然と片付いた居心地のいいはずの部屋が、いつの間にか逃げ場のない檻に変わっていた。

「大学三年の、春でした。あなたは、図書館へ続く道の途中にある、大きな桜の木の下のベンチで、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいた。時折吹く風に、あなたの長い髪が揺れて、舞い散る花びらがその髪に落ちるのを……俺は、少し離れた場所から、ずっと見ていました」

 彼の口から語られるのは、私自身も記憶の底に沈めていた、遠い日の風景。あまりに鮮明なその描写に、言葉を失う。彼は、なぜそんなことまで覚えているの?

「あなたの隣には、今の旦那さんがいました。彼はあなたの本を覗き込んで、心底退屈そうに大きな欠伸をしていた。……それなのにあなたは、彼に遠慮するように、慌てて本を閉じてしまった。その時の、あなたの寂しそうな、諦めたような笑顔が、ずっと頭から離れなかったんです」

 彼の言葉が、私の心の奥深くに突き刺さる。そうだ、あの頃から夫はそうだった。私が夢中になるものを、彼はいつも一歩引いた場所から、つまらなそうに見ていた。そして私は、そんな彼に合わせるように、自分の「好き」を少しずつ諦めてきたのだ。

「だから、決めたんです。あなたに、もう一度会おう、と。あなたの、本当の笑顔が見たい、と。そのためだけに、必死で勉強して、あの人の会社に入ったんです」

 背筋が、ぞくりと粟立つ。彼への印象が、音を立てて崩壊していく。偶然だと思っていた出会い。親切だと思っていた彼の言動。私が何気なく口にした好きな店のケーキを、わざわざ差し入れで持ってきてくれたこと。そのすべてが、念入りに仕組まれた罠だったというの?

「そんな……嘘よ……」

「嘘じゃありません。あなたのことなら、何でも知っています。あなたが好きな作家も、好きな映画も、本当は甘いものが好きなことも。……あなたの旦那さんよりも、ずっと」

 恐怖と混乱で、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。この人は、ストーカー……? 夫の部下という人懐こい仮面の下に、こんなにも深く、暗い執着を隠していたなんて。

「帰ります。もう、帰らないと。夫が心配するから……」

 震える足でドアに向かおうとした、その瞬間。腕を強く、けれど痛くないように掴まれた。振りほどけない、男性の力。

「優奈さん」

 二人きりの時だけ呼ばれる、その甘い響き。びくりと、体が強張る。

「あの人じゃ、あなたは満たされない。俺には痛いほどわかります。週末に一人で映画を見に行って、泣いていることも。本当は甘いものが好きなのに、彼の前ではいつもブラックコーヒーを飲んでいることも。あなたが時間をかけて作った煮込み料理を、彼が『味が薄い』の一言で片付けた時の、あなたの悲しそうな顔も。俺は、全部見てきました」

「なっ……!」

 見透かされている。私の孤独も、諦めも、誰にも見せたことのない心の柔い部分も、すべて。土足で踏み荒らされるような感覚に、息が詰まる。彼の視線が、私の唇に落ちる。ぞくり、と肌が粟立った。

「もう、我慢できません」

 囁きと同時に、抵抗する暇もなく腕を引かれた。私の背中が、冷たい壁に打ち付けられる。彼の硬い胸の中にすっぽりと閉じ込められ、嗅いだことのない、若くて力強い男性の匂いが、思考を麻痺させていく。そして、唇に、熱く濡れた何かが、乱暴に押し当てられた。

 それがキスだと認識するのに、数秒を要した。夫とする、義務のような儀式とは全く違う。私のすべてを奪い去り、彼の色に染め上げようとするような、激しくて、飢えたキス。

「ん……ぅ……ふ……!」

 驚きと恐怖で固く閉じた唇を、彼の舌がこじ開けてくる。思考が真っ白に塗りつぶされていく。ダメ、やめて、と心の中で叫ぶ理性とは裏腹に、長く忘れ去られていた体の奥が、その与えられた熱に、微かに、そして確かに反応してしまう。そんな自分が、どうしようもなく汚らわしく、そして恐ろしかった。この快感を、拒絶しきれない。冷え切っていた細胞の一つ一つが、彼の熱によって無理やり溶かされていくような、背徳的な感覚。もう、後戻りはできない。激しい雨音と、耳元で鳴り響く心臓の轟音だけが、この過ちの始まりを告げていた。

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