
検証開始、そして絶望
眠れなかった。一睡も、できなかった。
天井の木目を数え、羊を数え、素数を数えても、脳裏にこびりついて離れないのは、推しのキラキラした笑顔と、クラスメイトの氷のような無表情、そして一本の限定コラボペンだ。
「……偶然、だよな。うん、きっとそうだ。そうに決まってる」
朝日が差し込む自室で、俺は鏡の中の自分に言い聞かせるように呟いた。目の下にはうっすらとクマができている。声がやけに震えているのは、寝不足のせいだけじゃない。そうでもしないと、心の均衡が、今にも崩れ落ちてしまいそうだったのだ。
高坂凛が、あのシエルちゃん……? いやいや、ないない。絶対にない。片やファンへの神対応を欠かさない天使、片やクラスメイトへの塩対応を貫く氷点下女子。共通点なんて、性別と年齢と、同じ高校に通っていることくらいのもんだろ。そうに違いない。
重い足取りで学校へ向かい、自分の席に着く。隣では、凛がすでに静かに本を読んでいた。その完璧なまでに整った横顔を、俺は意識しないように努めながら、必死に盗み見る。
(まずは持ち物からだ……落ち着け、俺。これは真実を究明するための、神聖な儀式だ)
そうだ、検証だ。この、あまりにも馬鹿げたありえない疑惑を、俺自身の手で完全に、木っ端微塵に否定してやる。そうすれば、昨夜のように安眠を妨げられることもなくなるはずだ。
俺の視線は、探偵のように鋭く、それでいてストーカーのように粘着質に、凛の机の横にかけられたカバンに注がれる。ごく普通の、黒いスクールバッグ。だが、そのサイドポケットに、見覚えのあるものがぶら下がっていた。
(あれは……猫のキーホルダー……だと?)
デフォルメされた、ふてぶてしい顔つきの黒猫。どこかで……そうだ、一週間前のシエルちゃんの雑談配信だ。『最近、駅前のガチャガチャで可愛いキーホルダー見つけちゃってさー』と、画面の向こうで嬉しそうに話していた。まさか、あの時の……?
いや、まてまてまて。これもまだ偶然の範疇だ。あのキーホルダー、最近SNSでもちょっとした人気シリーズだし、凛が持っていたって、何らおかしくはない。偶然の一致、コモンケースだ。
セーフ。まだセーフだ。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は心の中で意味不明の判定を下し、次の検証項目に移ることにした。
昼休み。教室は、それぞれのグループが発する楽しげな喧騒で満ちている。俺は購買で買ったパンをかじりながら、その輪に加わるでもなく、遠巻きに凛を観察していた。彼女は教室の隅の席で、一人静かに弁当を食べている。その周りだけ、まるで時が止まったかのように、音がなかった。友達と話す様子は、まるでない。
(シエルちゃんも、配信で『友達少ない』って言ってたな……いや、あれはファンを安心させるための、計算され尽くしたコミュ障営業だろ! ガチのコミュ障があんなに流暢に喋れるわけがない!)
自己完結。よし、これもセーフだ。
そうこうしているうちに、凛が弁当を食べ終え、水筒のお茶を一口飲んだ。その時だった。
「……ふぅ」
小さく、本当に小さな声で、彼女が息を吐いた。そして、ぽつりと呟いたのだ。
「……さて、と」
俺は危うく、口に含んだ焼きそばパンを喉の奥に詰まらせそうになった。ゴフッ、と変な咳が出る。
『さて、と』。
それは、シエルちゃんがゲーム配信で一区切りついた時や、雑談パートに移る時なんかに、必ず口にする、彼女の代名詞とも言える口癖だった。ファンなら誰もが知っている、あの、最高の切り替えの合図。俺も大好きで、来るぞ来るぞ……と待ち構えてしまうほどだ。
なんで、それを高坂凛が……?
心臓が、またドクン、ドクンと嫌な音を立てる。偶然か? これも、まだ偶然の範囲内だと言い張れるのか? 日本中で『さて、と』を口癖にしている女子高生なんて、きっと星の数ほどいる……はずだ。たぶん。おそらく。メイビー。
アウト……いや、まだだ。まだ、決定的な証拠はない。声だ。声さえ違えば、すべては俺の妄想で済む。
そして、運命の六時間目。それは、選択制の音楽の授業だった。今日は二人一組での歌唱テスト。地獄か。もちろん、凛は誰とも組まず、一人でポツンと座っている。俺も、特に仲の良い友人がこの授業を取っていなかったため、余り者同士、先生の非情な指示で凛と組むことになってしまった。
「……よろしく」
「あ、うん。こちらこそ、よろしく……」
気まずい。気まずすぎる。疑惑の対象とデュエットしろと? どんな罰ゲームだ、これは。俺はただ、平穏に推しを応援したいだけの一ファンなんだ。
課題曲は、最近流行りのアーティストのバラード曲。女子パートと男子パートに分かれている。俺たちはほとんど練習もせず、いきなり本番を迎えた。凛との間には、見えない壁があるかのようだ。
俺が先に歌い、続いて凛のパート。彼女は俯いたまま、小さな、本当に小さな声で歌い始めた。
その瞬間、俺は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
声が、震えていた。緊張しているのが、手に取るようにわかる。だが、それ以上に俺を驚愕させたのは、その唯一無二の声質だった。
少しハスキーで、だけどどこまでも透き通るような、切なさを帯びた歌声。
間違いない。何度も、何度も、毎晩イヤホン越しに聴き続けた、俺の心を救ってくれた、あの声だ。
シエルちゃんが、たまに配信で披露してくれる『歌ってみた』の、あの歌声と、完全に、寸分違わず、一致していた。
高音で少しだけ音程が不安定になるところも、緊張で声が裏返りそうになる息遣いも、全部、全部同じだった。
もう、偶然だなんて言い逃れはできない。持ち物、口癖、そして、この歌声。バラバラだったパズルのピースが、カチリ、カチリと音を立てて、俺の脳内で残酷な一枚の絵を完成させていく。
テストが終わり、席に戻る。凛は相変わらず無表情で、窓の外を眺めていた。だが、俺にはもう、彼女がただのクラスメイトには見えなかった。彼女の横顔が、推しのアバターと重なって、ぐにゃりと歪む。
俺の推しが、隣の席にいる。
いや、違う。致命的に、間違っている。
隣の席の塩対応女子が、俺の推しだったんだ。
その事実に、俺の脳は許容量を超えた。喜び? 興奮? そんなポジティブな感情は、一ミリも、どこにもなかった。ただ、ひたすらに純度百パーセントの絶望があった。
放課後のチャイムが、まるでゴングのように鳴り響く。生徒たちが騒がしく教室を出ていく中、俺は一人、自分の席で頭を抱えていた。
「終わった……俺の、平穏なファン生活が……今日、ここで、終わった……」
これから、どんな顔してシエルちゃんの配信にスパチャを投げればいいんだ。
これから、どんな顔して隣の席の高坂さんに「おはよう」って言えばいいんだ。
俺の呟きは、誰に聞かれることもなく、夕暮れの教室に虚しく、虚しく溶けていった。
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